馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ 塚本邦雄は6月9日生まれ、今年は生誕100年を迎えました。
塚本邦雄の有名な短歌代表作品の訳と句切れ、文法や表現技法について解説、鑑賞します。
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馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
読み:うまをあらわば うまのたましい さゆるまで ひとこわば ひとあやむるこころ
現代語訳
馬を洗うのならば馬の魂が冴えるまで洗い、人を恋するならその人を殺めるまでの、その突き詰めた心
作者と出典
塚本邦雄『感幻樂』
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解説
塚本邦雄の代表作の一つとされ、比較的わかりやすい一首。
「こころ」の体言止めと一首の意味
「こころ」の体言止めで、述語が示されていないので解釈は分かれる。
「何事も心を込めてせよ」または「徹底してするように愛せ」のように、意味が示されたり訳されていることが多いが、作者は「心」を結句に焦点化しており、「せよ」の説諭やスローガンでは逆に陳腐に陥る。
一つの究極のこころの状態を表すのが、「人をあやむる」であり、そのような心の状態にスポットを当てるのが一首の意味と思われる。
「あやめるこころ」
たとえば、「冴ゆるまで」「殺めるまで」の対句であったとしたら、その場合は「○○にせよ」と考えてもよさそうだが、「まで」はない。
「あやめるまで」として、「まで」がつくのなら、「あやめるまで恋せよ」であるのだが、「あやめる」の帰結するところはあくまで「こころ」なのである。
さらに二句の「魂」の類語は「こころ」である。
「魂」は馬を洗う人にとっては対象物なのだが、結句において、それが行為をする人の「こころ」に入れ替わる仕組みになっているところも気づかれたい。
さらに、ひらがなの「こころ」としているところに、作者がこのようなの側面に、単なる「せよ」以上の意図を置いていることが推察される。
「馬のたましひ冴ゆるまで」
2、3句の「馬の魂が冴える」というのは、やはり一首の眼目であり、馬という動物の肢体の美しさが「魂」という形而上のものとつながってイメージされる。
魂そのものは目には見えないものだが、馬の肢体を思い浮かべるところで、その美しさが可視化されたイメージとなって、詠み手に浮かぶだろう。
そして対象が馬ではなく、「人あやむる」に移った時にも、そのイメージは残る。
馬を洗うことと人を殺めることは技法上も対句になっているのだが、二つの行為が並置して並べられた時、「馬を洗う」行為がそのまま、いかに人を愛そうともタブーである「人を殺める」ことと同一だと錯覚される。この並置と対句の効果に注意したい。
3句切れの構成
3句は「まで」で、句切れに似た切れ目が入る。「馬」に用いる字数が多いのに対して、「人」は少ない。
「冴ゆるまで」の三句がもっとも強調されるが、4句以下の77は弱い。フォルテとメゾピアノくらいの違いがある。
もし朗唱するとしたら、その「こころ」を歌う部分は、一段低い声で読みたい。内面を語るのに大声は要らない。
馬の魂を透視しうる作者の眼はまた、人の心をも可視化することができる。しかしそれは、あくまで心の内側の問題なのである。