吉野秀雄の妻の短歌 我が胸のそこひに汝の恃むべき清き泉のなしとせなくに - 短歌のこと

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吉野秀雄の妻の短歌 我が胸のそこひに汝の恃むべき清き泉のなしとせなくに

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吉野秀雄の妻は四児を遺して四十二歳にて亡くなった。八木重吉の妻登美子は、重吉とその遺児二人を結核ですべて亡くした。

その手記「琴は静かに」は、涙なくしては読めない。

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連れ添った吉野秀雄と登美子

登美子は身の回りの品と重吉の遺稿を持って吉野家へ嫁し、当時は無名であった重吉の真価を認めた吉野秀雄は、その詩を世に出すべく精を傾けた。

その遺稿の整理に、吉野家の子供たちが清書を手伝ったとも言われる。両親が病身の家庭で長く育った子供たちには当然のことであったのかもしれない。 

子を亡くした登美子も、今在る子供たちに精一杯尽くしたであろうと思われる。

亡き重吉と共に信仰を持つ人でもあった。

吉野秀雄が妻を詠んだ短歌

吉野秀雄が再婚の際に詠んだ歌。

 

 恥多きあるがままなる我の身に添はむとぞいふいとしまざれや
 重吉の妻なりし今の我が妻よためらわず彼の墓に手を置け
 我が胸のそこひに汝の恃(たの)むべき清き泉のなしとせなくに

 

三首目は「自分の心の奥底にあなたが頼りとするべき清い泉が、ないということのないように」との意味。子を亡くした母、母を亡くした子、共に連れ合いを亡くした夫と妻が寄り添い、いたわりつつ生きる家族の絆がことごとく美しい。

吉野秀雄【よしのひでお】

歌人。群馬県生れ。慶応義塾大に進んだが、肺患にかかって中退。病床で正岡子規の作品、歌論を読んで感激したことが契機となって作歌を始め、これ以後、宿痾との闘いをとおしてみずからも万葉調、写生説の実践をつづけていった。

やがて会津八一の門人となり、戦後に歌集《寒蟬(かんせん)集》(1947)を刊行。歌壇にデビューしたときにはすでに大家の風を樹立し畢(おお)せていた。

会津八一に私淑。胸を病み療養生活を続けながら作歌、真率な自然・人事詠を残した。その歌境の高さは同時代に類を見ないといわれる。歌集《苔径集》《寒蝉集》《吉野秀雄歌集》等のほか、良寛研究でも知られる。

 

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