吉野秀雄短歌集『寒蝉集』全作品 - 2ページ  

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吉野秀雄短歌集『寒蝉集』全作品

2018年7月10日

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乙酉年頭唫

たちかへる歳の旦(あした)の潮鳴(しほな)りはみ国のすゑのすゑ想はしむ

元日の暁(あかとき)起(お)きに巻脚絆(まきぎやはん)固くし締めてまうらすがしも

焼酎(せうちう)に葱(ねぎ)少しもてりあたらしき年のはじめとさらに勢(きは)はむ

雑煮餅妹(いも)が位牌にまづ供ふ春としもなき家内(やうち)のしづもり

水仙を挿せる李朝(りてう)の徳利壷かたへに据ゑて年あらたなり

陶壷(すゑつぼ)の水仙の花に面(おも)寄せて清き香(か)をきく年のはじめに

 

寒日訪友

滑川堰(なめりがはせき)のあくたに水仙の捨花(すてばな)見ゆれ正月二十日(はつか)

冬川の岸の氷にこまごまとにじむ影あり欅(けやき)の小枝

我を待つ友おもひゆく山みちに深冬青歯朶(みふゆあをしだ)陽をたたへけり

亡き妻を嘗ていたはりし岡の上(へ)にけふひとり立つ眼(め)には枯草

一むらの絮毛(わたげ)のすすき冬岡のひかりを吸ひてほしいままなる

友が扉(と)をいまだ敲(たた)かず門(かど)べなる山菅(やますげ)の実(み)にかいかがみをり

裏山にみづから伐(こ)りし木の株を煖炉にくべつ君が心根(こころね)

アトリエの煖炉燃えさかりねもごろに友は薪(たきぎ)になほ鉈振(なたふる)ふ

火炉(くわろ)に寄るわれら四人(よにん)に友が妻大根(おおね)の汁(しる)を配りめぐりぬ

妹(いも)なしのわれをさびしくあらせじと友は無理して夕餉(ゆふげ)もてなす

雑炊(ざふすゐ)にまじるを箸に堀りて食ふ伊豆の椎茸(しひたけ)肉のごとしも

道芝(みちしば)によごれる雪これをこれ夜深(よぶか)き月の光(かげ)はさいなむ

狩野河畔

亡き者の手紙身につけ伊豆の国狩野(かの)の川べの枯草に坐(を)り

冬くさの黄なるを友と敷きなしてことば少し妹(いも)をしぞ恋へ

冬ふかき狩野(かの)の流れは両岸(もろぎし)の篠生(しのふ)をも籠(こ)めてあやにかがよふ

平(たひら)かに日ざしなごめる冬川の二分(ふたわか)れして彼方(かなた)寒き瀬

船橋(ふなはし)の五艘の舟の片べりに陽炎(かげろふ)もゆれ春しかへらむ

おのづから藁塚(わらづか)の影むらsきに伊豆の涸田(かれた)は冬日あまねし

旅ごころわが身を責むれうちわたす伊豆の入野(いりの)に野火の跡著(しる)し

修善寺雑詠

「独鈷の湯」

桂川中洲(なかしま)に独鈷(どつこ)おし立てていで湯を斎(いは)ふいにしへよいまに

中つ世の鎌倉びとも山川(やまがは)にたよらに走(わし)る湯を浴みにけめ

「梅林」

しみじみと放(はな)つ尿(いばり)は黄の草に影ゆらめきぬ伊豆の枯山(からやま)

花に早き梅の林の片側を囲ふ赤松に夕日沁みたり

梅の園蕾固しといさぎよき楚枝(すはえ)の青さ観つつめぐらふ

冬園の梅も躑躅(つつじ)も老木(おいき)にて手触(たふ)らくきびし苔の乾(から)びは

椎(しひ)の樹の常蔭(とかげ)夕づき白しとも白きはなもつ梅を愛(かな)しむ

枝凍(こほ)る二月(にぐわつ)の梅の林より光厳(いか)しき富士を見放(みさ)けつ

一株(ひとかぶ)の山吹の冴(さ)え目をうばふみ冬ざれたる梅(うめ)園(ぞの)にして

下作(したづく)る茶畑すでに暗みゐて冬の梅ぞの暮れなむとする

わが四人(よたり)かくれて去りなばこの夜らはこの梅山に雪流るべし

春浅き山の降(くだ)りに絵具箱さげゆく友が後姿(うしろで)よ親し

「源頼家墓」

範頼(のりより)の墓よりめぐり頼家(よりいへ)の墓なき墓はさらに悲しも

尼御台(あまみだい)が事済みてのちに来て哭(な)きし左金吾督(さきんごとく)源頼家(げんよりいへ)の墓

「湯宿」

湯の宿の渓川(たにかは)ぞひの石垣に冬を凌げる歯朶(しだ)の類(るゐ)青し

これもかも亡き妹(いも)恋ふるよすがとて旅にあがなふ折本御詠歌(をりほんごえいか)

橋の上(うへ)に画(ゑ)を描く友に雪散れば宿(やど)の欄干(てすり)ゆわれはみつむる

「桂川小景」

湯の町の川の中渚(なかす)に雌雄三羽家鴨ねむりて沫雪(あわゆき)ながる

頸(くび)入れて家鴨(かも)ら眠る渚(す)をはさみせせらぎさむく鳴り交(かは)すなり

「山鳥」

尾羽(をば)長く赤き山鳥置かれたりしぐれて昃(かげ)る障子の内に

谷の門(と)のすそ山斑雪(はだれ)ゆふづきてしきりにむしる山どりの毛を

やまどりの毛羽(けば)捨てに出て谿川(たにがは)の暮れ入るいろの黝(くろ)きを見たり

山鳥の腹をほどけば啄(ついば)みし零余子(むかご)の葉かもまさに匂へる

旅にして山どりの骨をたたき合ふ友との縁(えにし)浅からめやも

やまどりの骨のたたきを鍋に掛け煮えむ待つ間(ま)と湯壷(ゆつぼ)にくだる

四本(しほん)の酒三人が飲みて嗜(たしな)まぬ一人(ひとり)の友も酔ひけるに似つ

山鳥の尾(を)ろ秀尾(ほつを)の十節羽(とふしば)は翳(かざ)してゆかな旅のしるしに

「戸田街道」

西伊豆(にしいづ)の海辺(うなび)に向ふ山道(やまみち)に雪解(ゆきげ)の泥(どろ)の光まぶしき

雪の山二つ望みてあたたかき戸田街道(へたかいだう)はこころがなしも

向う山の段段畠(だんだんばたけ)かがやくは若木(わかぎ)の桑か春は近しも

「三島明神」

神門(じんもん)のみぎりひだりに豊稲(とよしね)を掛け連ねたり伊豆一之宮

節分(せつぶん)の人出の中(なか)に神苑(かむその)の池はきびしく氷りつめたり

「函根遠望」

雪雲は函根(はこね)山脈(やまなみ)にむらがりてその一峯(ひとつね)に日あたる面(おも)あり

 

富士

「大仁にて」

我命(わぎのち)をおしかたむけて二月朔日朝明(にぐわつついたちあさけ)の富士に相対ふかも

きさらぎの浅葱(あさぎ)の空に白雪を天垂らしたり富士の高嶺(たかね)は

朝富士の裾の棚雲遠延(たなぐもとほは)へて函根足柄(はこねあしがら)の嶺呂(ねろ)を蔽へり

この岡の梅よはや咲け真向ひに神(かむ)さびそそる富士の挿頭(かざし)に

富士が嶺(ね)の氷雲(ひぐも)のひまを見据うればいただき近く雪げむり立つ

雪冴ゆる富士をそがひにあしびきの山松林風とよむなり

富士ねの雪のなぞへにはばまれて雲二方(ふたかた)に別れゆくらし

富士の肩の雪の稜角(そばかど)くきやかにただ一息の線(すぢ)を張りたり

「修善寺にて」

赤松にまじるくろ松黒松の太しき間(あひ)に高し冬富士

二もとの松の劃(かぎ)れる空占めて富士の片面は夕茜(ゆふあかね)すも

富士が嶺(ね)の裾雲(すそぐも)の下(した)なだらかに伊豆の冬山左右(さう)に並(な)み伏す

前山(さきやま)はその草がれに夕日燃え富士の白妙(しろたへ)いよよすがしも

麓ぐも斜(ななめ)に曳きて富士が嶺(ね)のおもたく西に傾けり見ゆ

「三島にて」

くしぶるや富士の高秀(たかほ)は天雲(あまぐも)をおのが息吹(いぶ)きと巻きかへしつつ

一ひらの雲の冠(かがふり)散るなべに富士の全容(ますがた)いまぞ観るべし

富士がねの彼面此面(をてもこのも)や雪映えてあくまで清き傾斜(なだれ)なしたり

夕富士は吹き晴れにけり低山(ひきやま)にみだるくろ雲雪降らさむか

富士がねをひとりさやけくあらしむと函根(はこね)の山に雪雲凝(こ)りつ

太白星(あかぼし)の光(かげ)増すゆふべ富士が嶺(ね)の雪は蒼めり永久(とは)の寂(しづ)けさ

時久(ときひさ)に凝視(まも)らふ富士の霊異(くしび)の魂(たま)わがむらぎもを揺りてすがしき

「雪の日」

かきくらし雪降るゆふべ六人(ろくにん)に五切(いつき)れの鰤(ぶり)がくばられきたる

雪天(ゆきぞら)を空襲サイレンけたたまし靡かふ雪にわが裂くる鋭目(とめ)

亡き妻が残しし炭をけふの雪にやや贅沢につぎつつそ想ふ

しんしんと雪積む日はみ仏に焚く線香も妙(たへ)に身にしむ

わぎもこが位牌納むる厨子(づし)の上(へ)の塵(ちり)をかなしむ雪の明りに

雪しまくくらき外明(とあか)りさしそひて障子の紙は飴色なせり

居酒屋にわが酔ひし間(ま)を自転車のサドルにしるく雪たまりけり

「きさらぎ」

み仏に供へし膳(ぜん)の菜をかててしみじみ嘗めつ合成酒二合

竹垣の横の締竹(しめだけ)寒明(かんあ)けの月をきびしく照りかへしたり

子にいはれわれと気のつく独言(ひとりごと)妻亡きのちに癖づきぬらし

感冒(かぜ)に臥す枕のうへに鰹節(かつぶし)をわが削(けづ)りをりやがて食ふべく

両面羊歯(ふたもしだ)の瑞葉(みづは)相寄り一抹(ひとは)けのきよき粉雪(こゆき)をささへもちけり

掃き寄せし埃(ごみ)の中より尺余りの紐と燐寸(マツチ)の軸一つ拾ふ

あなあはれ妹がみ霊にたく香(かう)のかをりこもりてゆふべひもじき

滑川(なめりがは)の水際(みぎは)こごしく氷りけり蜜柑の皮をあまた閉(とぢ)めて

「弘仁仏手」

み仏の曝(さ)れたるみ手にふほごもる千年(ちとせ)のぬくみあやしくもあるか

毀(こぼ)たれてみ手一つなるみほとけの奇(あや)に備(そだ)らす縵網(まんまう)の相(そう)

みほとけのねがひは悲し蹼(みづかき)を壊(く)え残してぞ度(わた)さむとする

「天平仏手」

薬師指(くすしゆび)ただ一茎(ひとくき)のなまめきて匂ふいのちに触れ敢へめやも

み仏のお指(よび)はまろく末ぼそになどかわがせむあてにあえかに

遠つ世のほとけのみ手をささへもち吾(あ)は恋ふれ亡き妹(いも)が直手(ただて)を

病臥二旬

(一)

吾妹子(わぎもこ)が位牌の前に血しほ吐き事態(じたい)をなげくゆとりだもなし

血をはきし病の床(とこ)に腕(うで)伸べて柱をたたく何のなぐさぞ

関東全区空爆の夜なり痰壷を闇につかみて血を吐くわれは

吉備彦(きびひこ)が思ひやさしく摘みけらし薮萱草(やぶくわんぞう)のうまからぬあはれ

病み心いきどほろしも配給日を十日過ぐるに味噌の貰へぬ

病み床(どこ)に君が庭べの紅梅をおもふ時しもその枝たまひぬ

自転車に乗りて娘のさがしこし卵九つ真玉(またま)の如し

大挙夜襲を告ぐるラヂオの一点(いつてん)の燈(あかり)みつめて病めば苦しゑ
観古(四)

「病臥二旬」(二)

夜襲爆撃のあやしき闇にたまきはるいのち潜(ひそ)めて血ははき吐きつ

折からの庭の菜の花雪柳瓶(かめ)に盈(み)てしめて血を吐きくらす

さ夜床(よどこ)の枕の上(かみ)に防火頭巾置きてぞ病めりうつし身我は

枕より一人静(ひとりしづか)の鉢みれば春深むまで病みこやりけり

薬のむ毎(ごと)に水呑(すひのみ)の水かけてひとりしづかの鉢をつちかふ

病むわれに固飯(かたいひ)食はすうかららの粥はひときは薄かりなんか

病牀(やみどこ)に香りをおくる沈丁花(ぢんちやうげ)

仏妻(ほとけづま)口きけぬをうつたふる世にもかなしき夢見つるかも

いたつきの痛みに堪へてきその夜の妹(いも)と相見し夢書き綴る

四畝半(ようねはん)の菠薐草(ほうれんさう)を目にかぞへただにたのみて病やしなふ

黄泉(よみ)の妹現(いもうつつ)を恋へかこの三夜(みよ)さ夜もすがらわれのまなこ冴えたり

枕辺の春も逝くべく花すもも緋の毛氈(まうせん)に散りかかるなり

「紅梅」

紅梅をふたたび君の給(た)びしかば紅梅の瓶(かめ)に紅梅を挿す

わが壁の多胡(たご)のいしぶみの墨摺(すみず)りにかなひて映えつ紅梅の枝

「鎌倉落花」

病床(やみどこ)を起きいでくれば琴弾(ことひき)の小橋(こばし)の眺め春も闌けにし

琴弾(ことひき)の橋の際(きは)なるさくら花一瓣(ひとよ)あまさで水にこそ散れ

散りざくらただよふ水は楓(かへるで)のはやさみどりの影をひたしぬ

水も狭(せ)に浮ける桜の花片(はなびら)にかつ散りそへり眼交桜(まなかひざくら)

川しもに瑞枝(みづえ)ひろぐる若楓(わかかへで)癒えかてぬ身の目見(まみ)にけぶらふ

ちり桜橋の下(した)なる水の面(も)をゆたにたゆたひ暮れのこりけり

送別

「松本たかし疎開」

菜畑(なばたけ)に梅散るゆふべ訪ひ寄りて松本たかしみちのくへ去る

病むわれを三たびあひ見て陸奥(みちのく)へ遠別(どほわか)れゆく君も瘠せつる

みちのくのいづくぞ八重畑(やへはた)とふ村にひたすらいとへ春の寒さを

「中村琢二疎開」

一瓶(ひとびん)の麦酒(ビール)を五人に頒(わか)たれて舐(ねぶ)るがごとし相別れなむ

かたき飯(めし)こころゆくまで食ひ足りて互(かた)みに別るかなしきろかも

「晩春雑歌」

山樟(やまぐす)の芽立ちは小さき双(もろ)の掌(て)を合せて祷るかたちせりけり

家居(いへゐ)して筒鳥(つつどり)のこゑ遠しもよ四月尽日(うづきじんじつ)午後とのぐもり

風呂敷に野蕗(のぶき)は余り小田(をだ)の芹(せり)提籠(さげこ)にみててこの日暮らしつ

亡き妻にあが下恋へばしが母を娘は偲ばむか田芹(たぜり)摘みつつ

ひとり居の春の夜更けてかりごもや乱れ心のせむすべもなさ

籠(かご)に盛る八重の山吹花数(はなかず)の七八十が垂れおもりけり

「建長寺」

葉桜のかげにいこへば宝前(ほうぜん)の盥嗽盤(くわんそうばん)を水光り落つ

「訪印人善雅」

うち望む友が住家(すみか)は藁屋根に山藤の房さきなだれたり

二階住みの君が檐端(のきば)にあしびきの山藤の花いまさかりなれ

山の藤庭藤のごと咲き足らひ世さがにそむくきみを慰む

「夏季小吟」

おのづから苔生(こけふ)に落ちし梅の実のつぶさに観れば苔よりも青し

至微(いとちさ)きわれのなげきをおしながすかのウヅのちの約百(ヨブ)のかなしみ

墨おろす硯の陸(くが)のひろやかに薝(のき)の芭蕉のみどり涵(ひた)せり

血痰を吐きつつもとな巨袋(こぶくろ)の坂にかかりぬ藷(いも)背負(しよ)ひてわれは

何よりのおのれ斃(たふ)しぞ母なくて子らの四たりが掻縋(すが)る身を

夕立の雨ふとぶとと十条(とすぢ)ばかり防火水槽のみずをたたける

疎開せる子を訪ねきて道端(みちばた)に杏(あんず)食ひ合ふ泣かむおもひに

「幽石軒前庭」

白雲木(はくうんぼく)の葉ごもり立つ花を玉鈴花(ぎよくれいくわ)とは名づけそめしか

白雲木の梢こぼるる白花を下枝の闊葉(ひろは)載せてひそけし

 

「敗戦」

ふるさとにたまたま在りて老母(おいはは)とけふのみ勅(のり)に哭(な)きいさちけり

つなぎ得しわが息の緒はけふゆのち絶えなば絶えよ竭(つく)しまつらむ

大御詔(おおみこと)すでに降りて警報のひびかぬみ空涙ぐましも

許されて今宵ともせる窗の灯(ひ)に法師の蝉のなくぞかなしき

庭畑(にははた)に埋めし物をかもかくも掘らむとすれど手力(たぢから)もなし

まがなしみ八幡の宮に参来(まいく)れば杉間とよもし秋の風吹く

母なき子その就中遠空(なかんづくとほぞら)の末の二人(ふたり)に寒さ来(き)むかふ

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