吉野秀雄短歌集『寒蝉集』全作品 - 3ページ  

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吉野秀雄短歌集『寒蝉集』全作品

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「亡妻小祥忌前後」(一)

空襲は日を夜を措(お)かねポケットに妻が位牌のありて寝起きす

うつし世の身は空襲のいささかのいとまに写す波羅蜜多心経(はらみたしんぎやう)

汝(な)がための写経の料(しろ)となりてしか去(い)ぬる年買ひし雀頭(じやくとう)の筆

想ひつつ焼酎(せうちう)すする折しもよひときはとよむ茅蜩(かなかな)のこゑ

くるしくもたもつ命に沁み入りて夕蜩(ゆふひぐらし)のよよと啼きたつ

戦(いくさ)敗れししづもりの底に一年(ひととせ)の妻が忌日(いみび)のめぐるかなしび

人の庭に秋海棠(しうかいだう)の花乞ひて妹(いも)が祀(まつ)りのよそほひとしつ

「亡妻小祥忌前後」(二)

忌日(きにち)けふ炊(かし)ぐべかりし白米はすでに腹病む子に食はせにき

去年(こぞ)のかの臨終(いまは)の刻(とき)のけふの夢にわれをいとしと告げし汝(なれ)はも

ゆふされば花びら閉づる玉簾花妹(たますだれいも)がみ霊(たま)の息づらしも

空襲にしばしば御厨子(みづし)守りのをりをりは酒に狂へるわれを見しめぬ

さ夜ふけて障子に来啼く馬追虫(うまおひ)の青き透翅(すきば)ももののこほしさ

言ひがたき夢さめしかば心経(しんぎやう)を何遍となくお唱へまをす

つぶやきをわれに許しね妹(いも)が死も永きいくさもつひにまぼろし

「夜間瀬川」

(信濃平岡村なる中村琢二画伯が疎開先にて)

旅の夜の枕に重くとどろきて夜間瀬(よまぜ)の流れ水嵩(みかさ)増すらし

枕べに蛼跳(いとどは)ねとぶ旅宿り出水(でみづ)の瀬音(せのと)夜すがらにして

村里(むらざと)の泉に朝の息たちてこころしたしく冬は来向ふ

旅にありて友が情けに食ひ足れば家に餓(かつ)うる子らし愛(かな)しき

来て立てば出水(でみず)の川はおし垂るる雨雲析(さ)きて響(な)りたぎつなり

「秋霖」

米負ひて旅ゆくわれに秋雨(あきさめ)のしぶきはきびしきのふも今日も

たたかひはすでに敗れつ信濃路(しなのぢ)の秋霖(あきづゆ)に濡れて還るみ霊(たま)あり

秋出水稲田(あきでみづいなだ)をひたす山里にみ魂(たま)迎への楽(がく)ひびくはや

雨さむき旅路(たびぢ)に艱(なづ)み数ふれば国裂けて五十六日を経つ

わが穿(うが)つ白の夏靴秋雨(あきさめ)の泥(ひぢ)にまぶれてはろばろに来(こ)し

「秋艸庵」

(越後中条の町はづれなる観音堂が庫裏に)

会津八一大人をおとなふ

新津駅(にひつえき)のほどろの暁(あけ)に口漱(すす)ぐ二時後(ふたときのち)に君にまみえむ

北越(きたこし)のどよもす風に飛びまがふ青き杉の葉踏みて訪ひ来(こ)し

観音の堂のかたへに結(ゆ)ふ庵(いほ)の白き障子よ籠(こも)り在(ま)すべし

一枚の羽織に足袋(たび)をそへもちてわれは来にけり旅の長路(ながて)を

まがつ火を身もて逃(のが)ると携へし鞄(かばん)ひかへて我を見たまふ

榾(ほだ)消えし囲炉裏(いろり)に寄りて彼(か)の越(こし)のひじりを今に君とおはせる

おりたちて鍋墨掻かす門川(かどかわ)の水の凍(い)てつく時も近けむ

かど川にみづから滌(すす)ぐ君がため野菊のいろの露に冴(さ)えたり

草がくる犬蓼(いぬたで)の穂のすがれては何にかきみがまなこ慰む

荒れ朽ちてさむき厨(くりや)に朝を夕(よ)をいとなむ君が物思(も)はざれや

み手づから大根(おほね)きざませわが前にあな忝(かたじ)けな味噌汁たぎる

垣内(かきつ)なる樅(もみ)も蔽へよ孤り身に老います大人(うし)に恙(つつが)あらすな

「北海大風」

越後柏崎の浜にいでて狂瀾を観る

北の海の冬呼ぶ風ぞ砂に這ふ枯莎草(かれかうぶし)を根掘(ねこ)じむばかり

吹きあぐる砂を浴びもて重波(しきなみ)のとどろの迫り敢へて観むとす

われの体(み)は風に屈(こご)まり一丈(ひとたけ)に余る辺波(へなみ)のくだくるを堪ふ

荒海(あらうみ)の磯元(いそもと)ゆする高波(たかなみ)の秀(ほ)さき吹かれて飛沫(しぶき)奔(わし)れり

大浪(おおなみ)の頭(かしら)崩れて横さまになびく水(み)げむり空(そら)にためらふ

赤にごり没日(いりひ)射しそふ北海(きたうみ)のおらびを耳の聾(し)ひてこそ聴け

「旅上偶成」

榛(たま)の木に組むが例(ためし)の稲架(いなはさ)を山峡小田(やまがひおだ)は杉(すぎ)の木間(このま)に

夜の汽車の暗き灯(ほ)かげにとりいでぬ亡妹(なきも)が書写(しょしゃ)の傘松道詠(かさまつだうえい)

加冶川原中州(なかす)の薄(すすき)かがよへば堤桜は葉を降らすなり

をとつひの風に歪(ゆが)みし洋傘(かうもり)をけさは時雨(しぐれ)にさして旅ゆく

旅の身は妹(いも)を恋(こほ)しみ仏具屋に入りて購(あがな)ふ念仏の数珠(じゆず)

 

「西芳寺林泉」

苔寺(こけでら)に来(こ)しくも著(しる)く白壁(しらかべ)の築地(ついぢ)に沿ひて苔生(こけふ)をし踏む

苔のいろうるほふ頃をあまつさへ時雨(しぐれ)過ぎけり苔庭の光沢(つや)

けだほどのしぐれを吸ひし毛氈苔(かもごけ)に濃染(こぞ)めの楓(かへで)枝を延(は)へたり

苔のうへに落葉きよらに寄せられつ松葉は松葉木葉(このは)は木葉(このは)に

木根立(きねだち)のこごしきを埋(うづ)め了(おほ)せむと勢(いきほ)ふがごと苔もりあがる

杉苔(すぎごけ)をい這ふ蔦(つた)あり蔓先(つるさ)きのこまかき葉すら深くれなゐに

苔庭に心おちゐて苔に散る馬酔木(あしび)の実をしまつぶさに見つ

木洩日(こもれび)はななめにさして御茶室(おちやしつ)の明障子(あかりしやうじ)の切(きり)貼り清し

松の樹の下には松葉つもりけり万代苔(よろぢよごけ)の氈(かも)の上(へ)にして

苔庭を池にくだれば破(や)れ荷葉(はす)と折れ伏す蘆(あし)と枯れざまきそふ

苔庭を苔は蔽ひて古池の水の底にも苔ひかるかなし

苔の庭をめぐりめぐりて池の尻落ちゆく水にはじめて声あり

池心(いけなか)の夜泊石(よどまりいし)に縋(すが)り生ふる実生楓(みしやうかへで)も紅葉(もみぢ)せりけり

「法隆寺」

駅前(えきまえ)に借りける傘をいかるがの里の時雨(しぐれ)にかたむけてゆく

斑鳩(いかるが)の村の小家(こいへ)も秋茄子(あきなす)を箱に作れり安からなくに

まゐり路(ぢ)の松の並木(なみき)に捨てられし軍需貨物にしぐれ降りつつ

あまたたび戦(いくさ)もなかに気遣(きづか)ひしみ寺望みて泣かざらめやも

築地(ついぢ)より枝伸(の)す松の白砂(しらすな)におく影消えてしぐれ来るなり

松の間(ま)にひともと紅葉(もみぢ)枝延(は)へて八入(やしほ)の雨に濃(こ)ぞめに染(そ)み

中門(ちゆもん)の真赭(まそほ)の柱かい撫づれみ寺もわれもいのちなりけり

いそしみてみ寺直しの土運ぶ童(こ)らよりはたや国興らむか

廻廊の櫺子(れんじ)のひまに面(おも)よせてすさべみ場(には)なげき尽きずも

解(ほぐ)されて失(う)せにし塔をしぐれ雲みだるる空に想ひおし立つ

和(やはら)ぎをたふとしとせしうまやどの皇子(みこ)のみことはいまし仰がな

「薬師寺」

塔婆

軒の三重裳階(みへもこし)の三重(みへ)の六重(ろくへ)の段(きだ)見つつし飽かね薬師寺の塔

しぐれきて塔の檐檐(のきのき)暗むなべ裳階(もこし)の壁のあやに白しも

ひさかたの天(あま)つ時雨(しぐれ)に水煙(すゐえん)のをとめの纏衣(てんね)ぬれそぼつらし

西塔址(さいたふあと)石のくぼみの雨水(あまみづ)にあな東塔(とうたふ)の影ぞさやけき

西塔(さいたふ)のいしずゑに佇(た)つわが外(ほか)に人なき庭を鶺鴒(せきれい)歩く

草鞋(わらじ)はきの若き旅びと一人(ひとり)来て塔を仰げりそのしぐるるを

(仏足石を拝して故里に病あつき母を懷ふ)

死(しに)近き母をこころに遠つ世の釈迦(さか)の御足跡(みあと)の石をしぞ擦(さす)れ

八十随好(やそくさ)の千輻(ちや)の文(あや)もつ大御足跡(おほみあと)死にゆく母を済度(わ

た)したまはな

みほとけのみあとはゆたに具足(そだ)らせり冷き石にゑりは彫(え)るとも

(東塔遠望)

東塔(とうたふ)に時雨(つぐれ)の虹の裾曳けばほとほとしにき旅の情(こころ)は

このうつつ現(うつつ)ともなしまなかひに秋の虹たち塔を荘厳(よそほ)ふ

「唐招提寺」

薬師寺をまかりて向ふ唐招(せうだい)の道に稲田(いなだ)の蝗(いなご)跳(は)ね来(く)も

金堂(こんだう)と鼓楼(ころう)の檐端(のきば)迫合(せりあ)へる間(ひま)のかなたに紅葉(も

みぢ)燃えたり

礼堂(らいだう)を裏手に廻り秋草のしどろの老いをかなしみにけり

枯れそめし草の黄よりもなほ黄にてこの蟷螂(かまきり)も雨に濡れゐつ

古寺(ふるでら)をしぐれにぬれてもとほればここに在る身のいのちさびしき

金堂

大棟(おほむね)の四つのくだりをしめやかにしぐれの雨は流らふるなり

ふき放つ前面(おもて)の柱めぐりゆきめぐり戻りてものをしぞ想へ

開山堂

(堂内に鑑真大和上の尊像を安置せり)

赭塗(そほぬ)りの扉(とびら)とざせる堂(だう)ぬちに和上(わじやう)も聴かむけふの時雨(しぐ

たどり来(こ)し夜半(よは)の雪道ここに岐(わか)れ細き一すぢは寺に入りゆく

室生路

巌床(いけどこ)は橡(とち)の落葉をつもらせて室生(むろふ)の渓間(たいま)冬に入るめり

高きより散りぼふ紅葉渓川(もみぢたにがは)に浮きてぞしまし朱(あけ)をとどむる

山川(やまがは)の早湍(はやせ)たまたま曲(わた)なして白き砂地を岸にたもてり

ひと年(とせ)と二月(ふたつき)の妻が命日(めいにち)を女人高野(によにんかうや)の山たどりをり

妹(いも)が霊(たま)負ひて来にしか室生(むろうぢ)の渓(たに)のたぎちの水沫(みなわ)をも見よ

猿沢池

猿沢の池の朝靄冬づきて旅の日数(ひかず)もあまたつもりし

さるさはの池のほとりの秋柳水漬(みづ)く枝より枯れそむるらし

(ある朝投身屍体を見る)

旅を来(こ)しこの池の辺(べ)に窮まりて脚絆(はばき)巻きたる骸(むくろ)さらしつ

「志摩」

これやこの古き手振(てぶ)りか志摩人(しまびと)ら田舟(たぶね)を浮けて晩稲(おしね)刈り込む

刈りあとの株(くひぜ)すなはちさみどりに穭(ひつぢ)ふきけり志摩の磯田(いそだ)は

鰈島(かれじま)に朝鳴く土鳩(どばと)秋ふかき入江(いりえ)へだててこゑのさびしさ

秋凪(あきな)ぎの英虞(あご)の海庭(うなには)漕ぎ廻(た)みていにしへいまの時もわかなく

あたたかく吹く秋風に志摩の崎伊雑(いさは)の桜返り咲きつも

賢島(かしこじま)たをり路(ぢ)蔽ふ青羊歯朶(あおしだ)にひかりは澄みて冬づきぬらし

羊歯群(しだむら)に朱実(あけみ)を垂るる蝦茨(えびうばら)海より直(すぐ)の陽(ひ)はみなぎらふ

舟寄せて見らくもわびし島磯(しまいそ)に乏(とぼ)しき稲をまばらかに乾す

島の背(せ)の夜露に立てば天之河(あまのがは)熊野が灘へおしかたむけり

英虞(あご)の海秋さわやかに遠展(とほひら)け紀伊のはたてに日は落ちむとす

真珠(しんじゅ)売る店の硝子戸小港(こみなと)の秋の没日(いりひ)を照りかへしたり

くれなゐに夕雲映(うつ)す入海(いりうみ)の曲(わた)に沿ひゆく旅人(たびびと)われは

蒼潮(あをしほ)を舟にのぞけば秋の日は底に及びぬその清砂に

外海(とつうみ)の空のまほらの夕茜(ゆふあかね)渡らふ鳥よこころはるけさ

「たらちねの母」

(昭和二十年十一月二十二日母高崎にて逝く享年六十七真宗を篤信し凡そなすべきをなしたるの人なりき)

こときれし母がみ手とり懐(ふところ)に温(ぬく)めまゐらす子なればわれは

蝋の灯(ひ)の五つの彩(あや)の暈(かさ)奇(くす)し死にませる母のその枕辺に

去年(こぞ)妻をなくしし我をいやましにいとしみまして母は逝きにき

息の緒(を)の絶ゆればすでにみ仏の母に唱ふる称名念仏(しようみやうねんぶつ)

通夜(つや)の酒母のめぐみといただきて酔ひつつもとな涙しながる

(二)

白き鬚(ひげ)膝に触るまでうなだれてとむらふ父を母も嘆きね

霜月のひかりすがしき聖石橋(ひじりしばし)母の柩(ひつぎ)はいまわたりゆく

柩挽(ひつぎひ)く小者(こもの)な急(せ)きそ秋きよき烏川原(からすがはら)を母の見ますに

ひつぎ車揺れゆくまにま打掛けの錦の袈裟(けさ)に秋陽(あきび)かがよふ

添ひあゆむ母の柩(ひつぎ)に村里(むらざと)の欅(けやき)のもみぢ散りかかるなり

なきがらの母をとどめて山坂(やまざか)の紅葉(もみぢ)のかげにわれらは憩ふ

(三)

堪へかてにわが敲(う)つ磬(けい)のごんごんとこの世の母は焼けたまふなれ

たらちねの母を焼く火のほのほだち鉄扉(かなど)の隙(すき)に見ざるべからず

秋の日は黄いろくさして虫啼けり焼場(やきば)の裏の賽之河原(さいのかはら)に

逢坂(あふさか)の雑木黄葉(ぞふきもみぢ)の梢(うれ)を這ふけぶりを母と思(も)ふべきものか

(上州富岡にて納骨の折に)

いだきゆくお骨(こつ)の母よ枯桑の畑(はた)のこの道いま通るぞも

妻の骨(ほね)けふ母のほねひと年(とせ)にふたたびひらく暗き墓壙(はかあな)

とことはに母を埋(うづ)めて見放(みさ)くれば御荷鉾(みかぼ)の山の斑雪(はだれ)蒼しも

(またおもひいでて)

在りし日の母が勤行(つとめ)の正信偈(しやうしんげ)わが耳底(みみぞこ)に一生(ひとよ)ひびかむ

 




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