「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」、石川啄木『一握の砂』の短歌代表作品にわかりやすい現代語訳をつけました。
歌の中の語や文法、句切れや表現技法と共に、歌の解釈・解説を一首ずつ記します。
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たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
読み:
たわむれに ははをせおいて そのあまり かろきになきて さんぽあゆまず
現代語訳と意味
ふざけて母を背負ってみたが、その余りの軽さに涙がこぼれて三歩も歩むことができない
語句と表現技法
・句切れなし
・「軽き」は形容詞の基本形で「軽し」 その名詞形
意味は「軽さ」と同じ。読みは「かろき」
・「そのあまり」は「その、あまりにも」を縮めた言い方と思われる
・「あまり」は副詞。意味は、程度がはなはだしい、常識や予想を超えているさま
・「歩まず」は現在形の否定
解説と鑑賞
この短歌は、集中最も有名な歌の一つであり、啄木の短歌の代表作としても知られている。
母をふざけておぶってみたら、あまりにも軽いことに気がついて、悲しくなったという心の動きが詠われている。
啄木の母への思慕の念
「一握の砂」の最初の方、11首目に配置されている。
これらの歌が詠まれたのは、明治41年であり、啄木の父母が岩手から上京してきたのは、翌42年と年譜にはある。
この歌が詠まれた時には、母は同居していなかったと考えられる。
ただし、事実かどうかはこだわらずとも、作者の母を思う気持ちや、思慕の念は伝わるだろう。
むしろ、この夜の「一晩に100首を詠む」という行為の中で、回想の中に、自然に母への思慕が現れてきたといってもいい。
このあと、下に詳しく解説する。
母を詠む一連の部分
その一連の短歌から、発想の軌跡を追ってみると、一連の歌はまず次のように並んでいる。
最初の4首。
目さまして猶(なほ)起き出でぬ児(こ)の癖はかなしき癖ぞ母よ咎むな
ひと塊(くれ)の土に涎(よだれ)し泣く母の肖顔(にがほ)つくりぬかなしくもあるか
燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我あり父と母壁の中より杖つきて出づ
たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
母への呼びかけが発端
この歌を作っていたのは夜。
「目さまして猶(なほ)起き出でぬ」、啄木はまず自分の習性に母を思い出す。
おそらくいったん眠って起き出したところで、それをよく叱っていた母を思い出したのかもしれない。
母の視点で「かなしき癖ぞ」と自らをうたってから、「母よ咎むな」と歌の中で呼びかけて、母への思慕が活性化する。
「泣く母」の像
次の歌、「ひと塊(くれ)の土に涎(よだれ)し泣く母の肖顔(にがほ)つくりぬかなしくもあるか」
「ひと塊の土」は「一握の砂」に通じる。
この『一握の砂』の冒頭で、泣いていたのは、啄木自身であった。
すなわち、「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」「頬につたふ涙のごわず一握の砂を示しし人を忘れず」「大海にむかひて一人七八日泣きなむとすと家を出でにき」としていたのが、泣いている主体が母に移っている。
「涎」と「なみだ」は同じものであり、作者の涎が、母の涙であるとする同一化が見られる。
つまり、「泣く母の肖顔(にがほ)つくりぬ」として、啄木の悲しみは母の悲しみとしてみなされているのだ。
「にがほ」を作るのであるから、母は目の前にいるのではない。
「にがお」を作るということは、母の悲しい姿を歌に詠もうとする俯瞰した言い方なのである。
この歌に、掲出歌の「たわむれに」の布石がある。
作者啄木の幻視
そして、次の「燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我あり父と母壁の中より杖つきて出づ」というのは、暗い部屋にいると、壁の中から、父母が出てくるような、そのような幻影について歌っている。
おそらく、啄木は、実際にもこのようなボワイアン-幻視者であったのかもしれない。少なくとも、この夜の啄木は高揚した気分であり、それに伴って五感が鋭敏になっていたのだろう。
しかし、ここで、冒頭の「母よ咎むな」以上の、両親のはっきりとした像が現れていることに注意したい。
幻の母を背に負う
そして、さらにその壁の中から出てきた幻の母を、作者が背負う情景に至るのが、本歌である。
この歌は、その前「壁から出てきた両親」と違って、本物の母、実景として詠まれている。
浄化した「母の」悲しみへ
背に負う母と一体化した啄木は、「軽きに泣きて三歩あゆまず」で、上の2首目の「泣く母のにがお」より、再びその涙を自分のものとして取り戻す。
つまり、それは涙であり、啄木の悲しみである。
「母を背負う」ということは、もちろん、この歌を詠む時点でなされたことではなく、事実ではない。
しかし、一体化した母は、再び浄化した悲しみを啄木に与えてくれたのである。
故よしのない「泣く母」よりも、啄木の心象風景の中で、実際に背負ってみた母が「軽い」と述べることで、啄木の「泣きて」にはじめてはっきりした理由が充てられた。
自分が大成しない、勤めも面白くないという啄木個人の状況が、「母の軽さ」に置き換えられて初めて、作者の泣く涙に、読者が共感できる下地ができたのである。
母の存在
心理学では、子どもは心に負いきれないものをいったん「母」のものとして体験することで、心の痛手を和らげる。
そして再び、自分が悲しいと感じることで、負の感情をも自分のものとして、これまでより容易に感じることができるようになる。
啄木にとってもまた、母はそういう存在であったのではないか。
事実がどうではなく、作者の内面の感じることの方が、作品においてはより重要なことである。
啄木の生活の背景
実際啄木の生活が困窮したのは、両親の扶助も行わなくてはならなかったからだとする説もある。
当初は富裕な寺の住職だった啄木の父は金銭トラブルで寺を出なければならなかったので、この翌年、一家は岩手県から、東京の啄木を頼って上京。東京の家で同居をすることになっていた。
啄木は、文字通り死ぬまで母を負い続けていたことには間違いない。
啄木の素行には言われる通り問題も多くあったが、一家の生活が啄木の上にかかっており、父母に対する責任や負担も大きくあったのには違いない。
ただし、この時代の長子は皆そのような立場であり、啄木一人だけの重荷とはいえないことでもあったろう。
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