「仮名序」は、紀貫之が歌集古今和歌集の最初に記した序文です。
仮名序の意味と内容の解説、現代語訳と現代仮名遣いを記します。
テストに役立つ品詞分解や文法解説も併記しますので、どうぞ参考にしてください。
「仮名序」とは
スポンサーリンク
古今和歌集の仮名序というのは、古い時代の、和歌の歌集の最初に置かれた文章、序文のことです。
古今和歌集の撰者である紀貫之が記したとされています。
関連記事:
古今和歌集と紀貫之 代表作和歌一覧まとめ
古今和歌集とは
『古今和歌集』(こきんわかしゅう)、略称「古今集」は、平安時代前期の勅撰和歌集のことです。
勅撰とは、勅命によって詩歌や文章などをえらんで書物を作ることで、命じたのは、醍醐天皇、命じられて編纂に当たった主な編纂者は紀貫之(きのつらゆき)です。
他に撰者は紀友則(きのともなり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)と記されています。
古今和歌集の構成
古今和歌集の構成は、
古今和歌集仮名序
↓
和歌集(春歌、夏歌、恋歌など)
↓
真名序(まなじょ)
また、wikipediaによると、細かい構成は下の通りとなります。
『仮名序』は、冒頭で和歌の本質とは何かを解き明かした後、和歌の成り立ちについて述べ、次いで和歌を6分類し、各分類について説明する。そして和歌のあるべき姿を論じ、その理想像として2人の歌聖(柿本人麻呂と山部赤人)を挙げ、次に近代の高名な6人の歌人(六歌仙)を挙げる。最後に『古今集』の撰集過程について触れた後、和歌の将来像を述べて終わる。―出典:フリー百科事典wikipedia「仮名序」より
仮名序はなぜ重要なのか
仮名序は、古今集の単なる序文というだけでなく、また短歌を並べたというだけではなくて、その総論として歌というものはどういうものか、そしてこれからどうあるべきかなどが記されています。
また、当時評価されていた歌人と、六歌仙といわれる歌人とその評も記されています。
歌に対する当時の考え方が、はっきりと文章で示されたものとなっているため、歌論の先駆けとしても歴史的な文学史の資料としても大変貴重なものとなっているのです。
※六歌仙については別な記事に記しています。
古今和歌集の仮名序原文
古今和歌集仮名序の原文です。
仮名序は長いのですが、その冒頭、和歌の本質とは何かを解き明かした部分のみを掲載します。
やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中に在る人、事、業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものに付けて、言ひい出せるなり。
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
力をもいれずして、天地をうごかし、目に見えぬ鬼神をも哀れとおもはせ、男女のなかをも和らげ、猛き武人の心をも慰むるは、歌なり。
-岩波書店刊の『古今和歌集』より
仮名序の現代語の新仮名遣い
上の原文を現代語の新仮名遣いにしたものです。
旧仮名遣いであっても、発音はこれを読んだ通りのものとなります。
やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。
よのなかにあるひと、こと、わざしげきものなれば、こころにおもうことを、みるものきくものにつけていいいだせるなり。
はなになくうぐいす、みづにすむかわづのこえをきけば、いきとしいけるものいずれかうたをよまざりける。
ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めにみえぬおにかみをもあわれとおもはせ、おとこおんなのなかをもやはらげ、たけきもののうのこころをもなぐさむるはうたなり。
仮名序の現代語訳
日本の歌は、人の心を種子として生い茂り、さまざまな言の葉となったものである。
この世の中に存在する人間というものは、かかわる事がらが多いものであるから、誰しも心に思っていることを、見るものや聞くものに託して表現しているのである。
いや人間だけではない。花の中に鳴く鶯や、水の中に住む蛙でも、その声を聞くのだから、あらゆる生き物のうち、歌を詠まないものは何があろうかということに気づく。
実際、力をも入れずに天地を動かし、目に見えない霊魂や神技をしみじみと感じさせ、男女の仲をもやわらげ、勇猛な武人の心をも和やかにさせるものは、歌なのである。--「古今和歌集」笠間書院の訳より
語の解説
・やまとうた・・・漢詩に対して、日本の和歌という意味
・ことのは・・・言葉のこと
・繁き・・・基本形「しげし」多い。たくさんある、のの意味
・ものなれば・・・順接確定条件 原因・理由[~ので ~から]と訳せる
・聞けば・・・順接の仮定条件(未然形につく) [~ならば ~たら ~ば]ここでは「聞いたならば」の意味
・天地・・・世界のこと
・猛き・・・形容詞「荒々しい」
・もののふ・・・武士のこと
仮名序の文法のポイント
いくつか疑問として挙がっている部分の品詞分解を提示します。
「生きとし生けるもの」の品詞分解
・生き・・・基本形「生く」の連用形
・と・・・格助詞-強意
・し・・・副助詞-意味を強めたり、言葉の調子を整えたりするために使う
・生ける・・・基本形「生く」の已然形
・もの・・・名詞
精選版 日本国語大辞典の解説では
(「し」は強めの助詞。「いき」は四段動詞「いく(生)」の連用形、「いけ」は命令形)
意味は「この世に生きているすべてのもの。あらゆる生物」
となっているので、「生きとし生けるもの」は一つの成句として覚えるのがよさそうです。
他に
・なれりける・・・「なり(動詞の連用形)+り(存続の助動詞)+ける(詠嘆の助動詞の連用形)
・よまざりける…「詠む(動詞)+ざり(打消しの助動詞「~ない」)+ける(詠嘆の助動詞の連用形) 意味は、「詠まないだろうか」
係り結び
文中に2か所の係り結びがあります
・言の葉とぞなれりける
「ぞ」→「ける」が係り結びの箇所
・いづれか歌をよまざりける
「か」→「ける」が係り結びの箇所
係り結びとは
対句 4か所
・「見るもの」「聞くもの」
・「花に鳴く鴬」「水に住む蛙」
・「力をも入れずして、天地を動かし」「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」
・「男女のなかをもやはらげ」「猛き武士の心をも慰むる」
対句とは
・・・
内容の解説と鑑賞
仮名序の中には「こころ」という言葉が4か所も出てきます。
仮名序の文章は、「和歌の本質と効用」について述べたものです。
またこの後の歌集部分の導入として書かれたものです。
一文ずつ解説します
「やまとうたは…」の現代語訳
やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
冒頭の「やまと歌は」のところ、「人の心を種として」、万のたくさんの言葉が生まれてくる、この「万」は具体的な数ではなくて、「たくさんの」という意味ですが、心が言葉を生むという、心と言葉の結びつき、言葉の元となるものが心であるということをまず述べています。
そのようにしてできるものが、「やまと歌」すなわち、短歌であり、和歌であるといい、心と和歌が直結するものだということが、和歌集である古今集の冒頭に述べられていることだという点に注目しましょう。
撰者である紀貫之は、「優れた歌を集めました」という挨拶よりも前に、「歌というものがこういうものである」すなわち、「歌-言葉-心」の三つの事物を挙げて、歌というものの考えを打ち出しています。
「世の中に在る人…」の現代語訳
世の中に在る人、事、業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものに付けて、言ひい出せるなり。
その次の文では、言葉が「万(よろづ)」のたくさんになる理由として、「世の中に在る人や事柄、生業などが、大変に多いもの」だということを、最初の考えの延長として論理的に続けています。
この主語は「世の中に在る人」つまり、人一般のです。
「心に思ふことを…」の現代語訳
心に思ふことを、見るもの、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。
「見るもの、聞くものに付けて」というのは、歌の題材が無数にあることを言っているのですが、その前に、やはり「心に思ふことを」として、言い出す言葉に先行して「心」があるということを、繰り返し言っているのです。
「花に鳴く鶯…」の現代語訳
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
そして今度は、言葉が「万」のたくさんであることから、「人、言、業」が繁くたくさんである、というとから、さらに、歌を詠む人、詠み手の方へも広げていきます。
一つ前の文は、「世の中に在る人」が主語でしたが、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。」というのは、「生きるものすべてが」ということです。
この文では、鶯や蛙が、「世の中に在る人」が「言い出せるなり」と対照して、あたかも歌を詠むように、「花に鳴」いたり、水の中で鳴いたりする存在として扱われています。
歌を詠む詠み手とその数が、「世の中に在る人」から「生きとし生きるもの」すべてに広げられていくのです。
「力をもいれずして…」の現代語訳
力をもいれずして、天地をうごかし、目に見えぬ鬼神をも哀れとおもはせ、男女のなかをも和らげ、猛き武人の心をも慰むるは、歌なり。
その上で、再び最後の文では、「心」の語が再び出てきます。
つまり、人の心が生んだ言葉による歌、それによって、今度は逆に人の心が慰められるということです。
最初に言う「心」は能動的な詠み手の心ですが、ここでは、詠み手から読み手へと視点が移っています。
その上でおもむろに、古今和歌集の歌集の歌がこの後で紹介されていく、仮名序の序文は歌集への導入として、そのような内容になっていると考えられます。
古今集の時代背景
仮名序のもう一つ興味深い部分は、下の部分です。
古へ世々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、さぶらふ人々 を召して、事につけつつ歌を奉らしめ給ふ。あるは花をそふとてたよりなき所にまどひ、あるは月を思ふとて しるべなき闇にたどれる心々を見たまひて、賢し愚かなりとしろしめしけむ。
この部分の現代語訳は
古代の代々の帝は、春の桜の咲く朝や秋の名月の夜には、臣下たちをお呼びになり、折々の事柄にちなんで、歌を献上させなさった。あるものは、花を何かに託して表現しようとして不案内な場所をさまよい、あるものは月を慕って手引きもない闇を手探りするようなことになる。そんな心中をご覧になって誰が賢くて誰が愚かかをご判断なさったそうだ
醍醐天皇と和歌
古今集の編纂を命じたのは醍醐天皇ですが、この部分には天皇と和歌の関わりが記されています。
天皇一般となっていますが、この時代の醍醐天皇も含め、臣下のものに和歌を詠ませることでその頭脳の賢さ愚かさを判断したのというのです。
その一つが仮名序がかかれた『古今和歌集』に始まる勅撰和歌集の成立です。
勅撰和歌集とは
勅撰和歌集とは天皇や上皇の命により編纂された歌集のことで、『古今和歌集』から『新続古今和歌集』までの534年間で21の勅撰和歌集もが編纂されたのです。
仮名序には和歌がうまいかへたかによって人事にも影響しかねない風潮が読み取れますが、これは和歌を得手とした紀貫之だけの独断ではありません。
和歌に見られる言語表現の巧みさは、そのまま社会的な有能さにもつながるものであったというのは、たいへん興味深い点です。
単純化して言えば和歌のうまい人は、それだけ知的に優れているという判断の基準が生まれており、そのような形で人々が自分をアピールすることが許されていたと言えます。
万葉集との違い
万葉集の時代においても和歌の技術はそれなりに評価されましたが、やはり武力が大きくものをいう時代でした。
また万葉集の時代の和歌は圧倒的に恋愛の表現に重きが置かれていましたが、古今集の時代には恋愛という二者関係ではなく、もっと広い社会的な視点で詠まれるようになったともいえます。
誰に詠む和歌か
誰かに贈るという和歌と、大勢のいるところで詠み、巧拙を判断される目的で詠まれる和歌は必然的にその目的が違ってきます。
仮名序の上の部分を見ると複雑化した社会背景が推察されると共に、人々が進んで和歌の腕前を競うようになった理由が読み取れます。
和歌はこのような新古今集、新古今集へ至る時代背景において大きく発展を遂げていったのです。