与謝野晶子がスペイン風邪で政府の批判 10人の子だくさん  

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与謝野晶子がスペイン風邪で政府の批判 10人の子だくさん

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与謝野晶子がスペイン風邪で子供を亡くしたという、誤った情報が一時期ネットで出回りました。

亡くなったわけではなくて、与謝野晶子の子どもと他の家族がかかったということが本当のようです。

与謝野晶子とスペイン風邪に関するエピソード、それと、与謝野晶子が子どもを詠んだ短歌をご紹介します。

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与謝野晶子とスペイン風邪

新型コロナの流行と共に、与謝野晶子はスペイン風邪の流行の折、子どもを亡くしたとネットで伝えられました。

実際には、そのような事実はなかったようです。

ただし、与謝野晶子の当時10人の子どものうち1人が感染、それがうつったのか家族がスペイン風邪に次々と感染するという出来事がありました。

子だくさんであるがゆえに大変な思いをしたのでしょう、与謝野晶子は横浜貿易新法に「感冒の床から」とする評論を投稿しました。

「感冒の床から」

評論の指摘は、以下のようなものです。

「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、工業物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」

この文章は多くの読者に説得力を持って受け止められたとあります。(朝日新聞)

 

与謝野一家のスペイン風邪の罹患は大正7年の出来事であったようです。

そして、それから約100年後、人々がその文章を思い起こした新型コロナの流行の経緯はここに記すまでもないでしょう。

 

与謝野晶子と12人の子ども

与謝野晶子はその後も、子どもを産み、子どもの数は、全部で12人、うち1人が乳児の時に亡くなっています。

与謝野鉄幹は名の通った歌人ではありましたが、確実な収入があったというわけではなかったようです。

そこで、妻の晶子が奮闘しながら、仕事と子育てをこなしたわけなのです。

与謝野晶子の短歌というと、常に鉄幹との不倫時代の恋愛の短歌ばかりが取り上げられていますが、一面で、晶子は立派な家庭人であったと思われます。

それでは、ほとんど知られていない、与謝野晶子の子どもを詠んだ短歌には、どのようなものがあるのでしょうか。

「君死にたまふことなかれ」にある母の視点

歌を読む前に書いておくべきことは、「君死にたまふことなかれ」は、日露戦争が始まったときに書かれた詩で、戦争に兵士として参加する弟を思って書いた詩です。

さらに、この詩は、晶子が光と秀の子どもを二人得てからの明治37年時点のものであり、命の大切さという主題が、出産を経て母となった時期の晶子の作品だということも記憶しておきたいところだと思います。

 

与謝野晶子の子どもの短歌

与謝野晶子の作品は5万首とも言われ、膨大な量があるので、調べるのもむずかしいのですが、子どもの短歌で目についたものをまず2首あげておきます。

君に似し二尺ばかりの人ありて家うち光れり神より来しや

清らにも我が子の病める悲しさよ水の底なる月のここちに

・・

 

君に似し二尺ばかりの人ありて家(や)うち光れり神より来しや

作者と出典

与謝野晶子 第六歌集『夢之華』

現代語訳と意味:

あなたに似た小さな人である子どもがいるので、我が家の中は光り輝いている。その人は神より来たのではないか

解説

光と秀の二児を得た晶子が、子どもが家にある喜びを歌った作品です。

抽象的な内容にとどまっていますが、神話の影響が背景にあるという指摘があります。

 

清らにも我が子の病める悲しさよ水の底なる月のここちに

作者と出典

与謝野晶子『青海波』明治44年

現代語訳と意味:

清らかに我が子が病気になって伏せている様子は清らかでもあり、その時の悲しさは、水の底に月が沈んているような心持だ

解説

この歌は、明治44年の時のもので、スペイン風邪よりもずっと前のものです。

しかし、子どもの病気に関して、このような母としての思いを読んでいます。

 

明治41年の歌集『常夏』から、明治44年の『青海波』までで、与謝野晶子の我が子を題材にした他の作品をあげておきます。

少女子は御胸に入りて一天下治むるごときこととり申す

少女子は春の夕ぐれ螺がたの階をのぼるとおん手によりぬ

作者と出典

与謝野晶子 歌集『常夏』明治41

現代語訳と意味:

少女子(おとめご)は父の胸に抱かれて、そのことをまるで天下をおさめるようなことと言う

娘は春の夕暮れのらせん階段を上りたいと父の手に寄った

解説

こちらは、双子である八峰と七瀬という子供たちを詠んだものとされています。

双子の女の子たちが、かわるがわる父である鉄幹に甘えている様子のようです。

 

子らの衣皆新らしく美くしき皐月一日花あやめ咲く

作者と出典

与謝野晶子『佐保姫』明治42

現代語訳と意味:

子どもたちの新調した着物が一様に新美しい5月1日の今日、あやめが咲いている

 

兎の絵魚の絵描きて永き日を子に見することややあじきなし

七つの子かたはらに来てわが歌をすこしづつ読む春の夕ぐれ

秋来ぬと白き障子のたてられぬ太鼓討つ子の部屋も書斎も

作者と出典

与謝野晶子『青海波』明治44年

現代語訳と意味:

兎の絵や魚の絵などを子どもに書いてやって見せているのだが、やや味気ないものだ

七才になる子供が脇に来て、私の書いた歌を少しずつ読んでいる春の夕暮れだ

 

かなしくもわが子の指にはさみたる蝶の羽より白き粉のちる

腹立ちて炭まきちらす三つの子をなすにかませて鶯を聞く

作者と出典

与謝野晶子『青海波』明治44年

現代語訳と意味:

いとおしくも我が子が取ってきて指に挟んだ蝶の羽から、白い粉が散る

腹が立った様子で住をまき散らしている3歳の我が子をそのままにさせて、鶯の泣くのを聞いている

終わりに

家庭人としてまた、歌人として精力的に仕事をした与謝野晶子ですが、作品は恋愛の短歌の『みだれ髪』だけではありません。

その後の作品も含め、広く鑑賞してきたいものです。




-与謝野晶子

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