人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ 斎藤茂吉  

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人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ 斎藤茂吉

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人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ

斎藤茂吉の万葉集の大歌人である柿本人麻呂を詠った代表作短歌の鑑賞と解説を記します。

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人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ

読み:ひとまろが ついのいのちを おわりたる かもやまをしも こことさだめん

作者と出典

斎藤茂吉 歌集『寒雲』

一首の意味

柿本人麻呂が亡くなったところ、鴨山がここの土地であると定めよう

語句の解説

  • 人麿…「柿本人麻呂」のこと
  • 「ついのいのち」…「終の生命」。柿本人麻呂が亡くなった場所の意味
  • 鴨山をしも…「し」と「も」は強意の助詞 (「も」は「もまた」の意味ではない)

修辞と句切れ

・句切れなし

柿本人麻呂について

持統天皇と文武両朝に仕えた宮廷歌人とされる。万葉集に、長歌20、短歌75首が収録、情熱あふれる内容と、雄渾な声調から「歌聖」、大歌人として今に伝えられている。

古今和歌集の仮名序にも、作品と共に紹介がある。三十六歌仙の一人。

柿本人麻呂代表作

あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ

大君は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも

八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ

柿本人麻呂の経歴

飛鳥時代の歌人。生没年未詳。7世紀後半、持統天皇・文武天皇の両天皇に仕え、官位は低かったが宮廷詩人として活躍したと考えられる。日並皇子、高市皇子の舎人(とねり)ともいう。

「万葉集」に長歌16,短歌63首のほか「人麻呂歌集に出づ」として約370首の歌があるが、人麻呂作ではないものが含まれているものもある。長歌、短歌いずれにもすぐれた歌人として、紀貫之も古今集の仮名序にも取り上げられている。古来歌聖として仰がれている。

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解説と鑑賞

斎藤茂吉は、柿本人麿の研究にいそしみ、人麻呂終焉の地を探して自らゆかりの土地を訪ね。

「鴨山」を終焉の地としたのは、人麻呂自身の「鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹は待ちつつあるらむ」の地名からである。

夢のごとき「鴨山」恋ひてわれは来ぬ誰も見しらぬその「鴨山」を

人麻呂の歌から推察できる風景を元に、実地踏査の結果、島根県邑智郡美郷町の湯抱温泉にある鴨山をその地と断定した。

茂吉の考えの変転

ただし、茂吉は、最初からこの土地を「鴨山」としていたわけではなかった。

最も初めに終焉の地としたのは、別な場所である「津目山説」、次が邑智郡邑智町大字湯抱小字にある「鴨山」という同名の場所という順序となる。

ただし、それであっても、人麻呂の歌と現実の風景との突合せを行い、そこになんらかの合致を見出した茂吉の感激は強かったようだ。

斎藤茂吉の歌碑

人麿がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ

鴨山を二たび見つつ我心もゆるが如し人に言はなくに

この土地には、掲出歌を刻んだ斎藤茂吉の歌碑が立てられている。

そして、

つきつめておもへば歌は寂びしかり鴨山にふるつゆじものごと

という、実証とは別の、茂吉の心情的な結論ともいうべき歌もみられる。

人麻呂終焉の地の謎

ただし、他にも

  • 益田市沖合にあったとされる鴨島で没したとされる
  • 梅原武の鴨島沖で刑死させられたとの「人麻呂流人刑死説」

などの複数の説があり、人麻呂終焉の地は、いまだに確定されることはなく、謎のままとなっている。




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