今朝のあさの露ひやびやと秋草やすべて幽けき寂滅の光 を含む、伊藤左千夫の代表的な短歌の連作のひとつ、「寂滅(ほろび)の光」をご紹介します。
この一連は、伊藤左千夫晩年の傑作と言われています。
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伊藤左千夫「寂滅の光」
伊藤左千夫の短歌で、大正1年の作「ほろびの光」の一連があります。
この一連は、伊藤左千夫晩年の代表作品ですが、その中の一首が下の作品です。
今朝のあさの露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光
読み:けさのあさの つゆひやびやと あきくさや すべてかそけき ほろびのひかり
意味:
今朝の朝露の冷え冷えとしてそれを被る秋草よ それらすべてがかすかな滅びの光をまとっている
解説と鑑賞
晩秋の風物と共に作者の寂寥感を表した伊藤左千夫晩年の一連の中の一首。
「寂滅」の意味
伊藤左千夫は晩年は仏教にも造詣が深く、「ほろび」と読ませる「寂滅」は、仏教用語で、「消えてなくなること。ほろびること。死ぬこと。死」との意味があります。
この歌が詠まれた時は、伊藤左千夫は人生のわびしさ、寂しさに面しているときだったのは違いありません。
アララギの弟子と不仲に
この頃、伊藤左千夫は、アララギの指導者ながら、弟子たちと不仲となっていました。
原因はそれぞれの目指す歌の方向が違ったことにあったようです。
アララギ発刊後は、伊藤左千夫が選歌を請け負っていましたが、弟子と疎遠になったため、一時は「アララギ」の廃刊までが話に出ていました。
島木赤彦の反対で、廃刊は避けられたものの、とうとう左千夫が選歌から退くという事態にまでなっていたのです。
アララギで孤立した伊藤左千夫
この時の左千夫の状況を、藤沢周平は小説『白き瓶』の中で、
「そのころの左千夫は、誰からも相手にされず、結社の中で孤立していたのである。
と述べています。
左千夫の短歌に対する考えが若い同人には古臭いもので、頑固に旧弊なスタイルを守ろうとした左千夫は、師ではあっても、もはやじゃま者とまで言われるような雰囲気が生まれていました。
「野菊の墓」の元となった恋愛と別れ
短歌の歌人として以上に、伊藤左千夫は、小説「野菊の墓」の作者として知られていますが、それは、左千夫の恋愛体験と関連があります。
婚外恋愛としての恋愛の相手でしたが、この相手ともやむなく別離に至ったことも、「寂しい」気持ちを助長させたに違いありません。
そのような背景をもって、上の歌を含む「ほろびの光」一連は詠まれたのです。
「ほろびの光」は左千夫晩年の傑作
伊藤左千夫の当時の状況、そしてその後の早い逝去を思うと胸が痛みますが、この一連の作品は、左千夫晩年の傑作と言われています。
左千夫の率いるアララギに参加、左千夫の添削指導を受けながら短歌を学んだ斎藤茂吉は、作風の違いから左千夫のに反発した一人でしたが、この一連を詠んで感動、伊藤左千夫の自宅に向かったところを、『白き瓶』が伝えています。
季節の詠嘆が人生の詠嘆でもあるような重厚な作品だった。そのことを先生に言ってあげたい、と思った時茂吉は突然に目頭が潤むのを感じた。歌で結ばれた私邸という言葉が胸に溢れて来たのである
実際には、伊藤左千夫のはその後、急逝したため、生前中は、弟子たちとの和解は成り立ちませんでした。
斎藤茂吉は処女歌集『赤光』の出版の準備中でしたが初版では、その冒頭を「悲報来」として、伊藤左千夫の逝去で歌集を初めています。
「寂滅の光」一連の歌
おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く
鶏頭のやや立ち乱れ今朝の露のつめたきまでに園さびにけり
秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花
鶏頭の紅(べに)古りて来(こ)し秋の末や我れ四十九の年行かんとす
今朝のあさの露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光