熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王  

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熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王

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熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王(ぬかたのおおきみ)の万葉集の和歌の代表作品の、現代語訳、句切れや語句、品詞分解を解説、鑑賞します。

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熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

読み:にきたつに ふなのりせんと つきまてば しおもかないぬ いまはこぎいでな

作者と出典

万葉集 額田王 ぬかたのおおきみ 1-8

現代語訳と意味

熟田津で船出をしようと月を待っていると 月も出て、潮も良い具合になった。さあ、今こそ漕ぎ出そう

語句と文法の解説

  • 熟田津…読みは「にきたつ」。他に「にぎたつ」とも読まれる。
    海のある地名で、現在の松山市内にあると言われている。確定はしていない。
  • 船乗りせむ…「船乗り」は船に乗って出かけること。
  • せむ…「せむ」の基本形「す」に助動詞の「む」。「船乗りする」の意味の「船乗りす」が基本形。「む」は、未来・意思を表す助動詞で読みは「ん」の音となる
  • 月待てば…月を待っていると の意味。「ば」は、仮定法順接。
  • かなひぬ…基本形「かなう」の連用形。「ぬ」は、完了の助動詞。「かなった」の意味。「かなう」の漢字は「適う」で、意味は「ちょうどよくなった」
  • 漕ぎ出でな…基本形は「漕ぎ出づ」。「な」は終助詞で「自己の行動に関しての希望や、その実現の意志を表わす」意味。ここでは、皆に呼びかける勧誘的用法。

句切れと修辞について

  • 4句切れ
  • 字余り(結句8音(以下解説あり)




 

解説と鑑賞

詞書には「この歌は天皇の御製なり」とあるが、額田王作とされている。

661年に天皇や中大兄ら多くの皇族を乗せた船団が、百済を救援するため、筑紫に向けて難波を出立した。

熟田津の場所ははっきりしていないが、航路の途中で、四国の松山あたりの海に停泊、再出発の時の宴(うたげ=宴会)において、披露された歌とされる。

「月待てば潮もかなひぬ」の省略

「月待てば潮もかなひぬ」は船出のために月や潮を待っていると、月が出て、船の走行に都合がよく明るくなり、さらには、潮の流れも良くなったということ。

「月待てば月が照りたり 潮待てば潮もかなひぬ」としたいところだが、短歌は字数が限られているので、「月待てば潮もかなひぬ」として、その両方が良くなったことを表す。

「漕ぎ出でな」に至る構成

最初の出発時には、神々への祈りが真剣に行われたので、この歌は、その後に続く航路の途中の歌である。

またこれは、写実的、実際的な描写ではなくて、航海の無事のために霊的自然を理想的に描き出す呪的な表現」(『万葉の歌人たち』解説)でもある。

「月や潮」で、天皇を含む一行が天に祝福され、整った自然条件の中で、人の意志「漕ぎ出でな」は、天の意図に添った形で一連の自然な流れを形作る。

「漕ぎ出でな」までの表現技法 

「月待てば潮もかなひぬ」は、「5・7」の字数で、リズムが整っている。

いったん4句で句切れを経て、あらためて、「今は漕ぎ出でな」の結句は、印象深く、作者の強い意志を感じさせる表現となる。

斎藤茂吉の『万葉秀歌』の評

斎藤茂吉の万葉集の歌の解説におけるこの歌の評は以下の通り

「船乗り」は此処ではフナノリという名詞に使って居り、(中略)「月待てば」はただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、ここは満潮を待つのであろう。月と潮汐には関係があって、日本近海ではだいたい月が東天に昇る頃潮が満ち始めるから、この歌で月を待つというのは、やがて満潮を待つということになる。 月が満月で朗らかに、潮も満潮で豊かに、一種の声調を大きく揺らいで、古今に稀なる秀歌として現出した。

5句とも句割がなくて整調し、句と句との続けに、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」などの助詞が極めて自然に使われているのに、「船乗せむと」、「 漕ぎいでな」という具合に流動の節奏を以て緊(し)めて、それが、第2句と結句である点などをも注意すべきである。結句は8音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い子である。この結句は命令のような大きい語気であるが、たとえ、作者は女性であっても集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的な響きとしてこの表現があるのである。―斎藤茂吉『万葉秀歌』より

 

額田王はどんな歌人?

額田王(ぬかたのおおきみ)は、「鏡王の娘」という以外詳しい出自や生年などもわかりません。

古いことなので、万葉集の作者やその時代の人には、有名でありながらそのような例もたくさん含まれています。

額田王は飛鳥の宮廷に入り、まず大海人皇子と結婚しますが、そのあと兄の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の妻になります。

また万葉集の歌人、鏡王女は額田王の妹とされています。

額田王について

『万葉集』初期の女流歌人。生没年不詳
7世紀後期の女流万葉歌人『日本書紀』に鏡王の娘とあるが,鏡王については不明。同じ万葉女流歌人で藤原鎌足の室となった鏡王女 (かがみのおおきみ) の妹とする説もある。大海人皇子 (天武天皇) に愛されて十市皇女 (とおちのひめみこ) を産んだが,のちに天智天皇の後宮に入ったらしい。この天智天皇,大海人皇子兄弟の不仲,前者の子大友皇子と大海人皇子との争い,壬申の乱などには彼女の影響が考えられる。―ブリタニカ百科事典

額田王の和歌作品について

額田王の残した歌はそれほど多くはなく、短歌が9首、長歌が3首、全部で12首の歌があります。

代表的な歌は
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る/額田王の有名な問答歌

その歌の特徴は、「ふくよかでありながら、力強く凛々しい」歌と言われています。

額田の王の和歌の特徴

『万葉集』には,皇極天皇の行幸に従って詠んだ回想の歌を最初とし,持統朝に弓削 (ゆげ) 皇子と詠みかわした作まで,長歌3首,短歌 10首を残している (異説もある) 。職業的歌人とする説もあるが,歌には明確な個性が表われている。質的にもすぐれており,豊かな感情,すぐれた才気,力強い調べをもつ。(同)

額田王他の短歌

秋の野のみ草苅り葺き宿れりし宇治の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ 1-7

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや 1-18




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