万葉集

我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ 山部赤人 万葉の真間の手児奈伝説

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我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ

万葉集の代表的な歌人の一人、山部赤人の有名な和歌を鑑賞、解説します。

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我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ

読み:われもみつ ひとにもつげん かつしかの ままのてこなが おくつきところ

作者

山部赤人 万葉集 3-432

現代語訳

私も見た 人にも教えよう 葛飾の真間の手児名の墓のある場所を

句切れと修辞

  • 初句切れ 2句切れ
  • 体言止め

語と文法

・見つ…「つ」は過去の助動詞

・告げむ…「む」は意志を表す助動詞

・奥つ城ところ…「おくつき」は墓のこと。「ところ」は場所

 

解説と鑑賞

山部赤人が、下葛飾の真間娘子の墓を見て詠んだ長歌の反歌。

手児名は乙女のことで、真間の手児名は、万葉の時代の伝説のひとつ。

山部赤人の他、高橋虫麻呂もこの伝説をもとに詠んだ歌がある。

この次の歌は「葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名しおもほゆ」」がある。

真間の手児名伝説とは

辞典の解説によると、

真間は現在の千葉県市川市真間町に比定され,テコは娘子の方言,ナは愛称の接尾辞である。虫麻呂の伝説歌に依ると,粗末な身なりはしているが,箱入り娘もとてもおよばないほどの美人であった手児名は,多くの男に求婚されたが,わが身を思い知って入水してしまったという。そこには,人間の男に嫁ぐことのできない巫女のイメージが暗示されている。市川市には,手児奈が水をくんだという真間の井,つぎ橋などの伝承地が残されている。

斎藤茂吉の『万葉秀歌』解説より

伝説地に行ったという旅情のみでなく、評判の伝説娘子に赤人が深い同情を持って詠んでいる。ただしいたずらに激しい感動語を以てせずに、淡々と言い放って赤人一流の感慨を表現しおおせている。―「万葉秀歌」斎藤茂吉著

山部赤人の他の和歌

縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島榜ぎ廻る舟は釣しすらしも(3-357)

武庫の浦を榜ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつともしき小舟(3-358)

我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ(3-432)

沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも(6-918)

若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴たづ鳴き渡る(6-919)

み吉野の象山きさやまの際の木末にはここだも騒く鳥の声かも(6-924)

ぬば玉の夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く(6-925)

玉藻刈る辛荷にの島に島廻(しまみ)する鵜にしもあれや家思はずあらむ(6-943)

島隠り我が榜ぎ来れば羨しかも大和へ上る真熊野の船(6-944)

風吹けば波か立たむと伺候に都太の細江に浦隠り居り(6-945)

明日よりは春菜摘まむと標し野に昨日も今日も雪は降りつつ(8-1427)

百済野の萩の古枝に春待つと居をりしうぐひす鳴きにけむかも(8-1431)

あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも(8-1425)

恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり(8-1471)

山部赤人とはどんな歌人か

山部赤人 (やまべのあかひと) 生没不詳

神亀元年 (724) 年から天平8 (736) 年までの生存が明らか。国史に名をとどめず、下級の官僚と思われる。『万葉集』に長歌 13首、短歌 37首がある。聖武天皇の行幸に従駕しての作が目立ち、一種の宮廷歌人的存在であったと思われるが、ほかに諸国への旅行で詠んだ歌も多い。
短歌、ことに自然を詠んだ作はまったく新しい境地を開き、第一級の自然歌人、叙景歌人と評される。後世、柿本人麻呂(かきのもとの-ひとまろ)とともに歌聖とあおがれた。三十六歌仙のひとり。







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