有島武郎の忌日は6月9日の「星座忌」と呼ばれています。
有島武郎は心中自殺によって亡くなりましたが、理由は婚外恋愛のトラブルが発端でした。
きょうの日めくり短歌は、星座忌にちなみ、有島武郎の辞世の短歌と、有島武郎の自殺の理由を記します。
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有島武郎の忌日「星座忌」
6月9日は有島武郎の忌日「星座忌」です。
「星座忌」の名称は、晩年の長編小説で未完に終わった作品『星座』にちなみ、そのように命名されました。
有島武郎と代表作品
有島武郎は1878年(明治11年) 東京都生まれ。
「白樺」に参加して、作歌として活躍。弟に画家の有島生馬、作家の里見弴がいます。
代表作品は、教材にも取り上げられる『一房の葡萄』が有名で、他に、『或る女』『生れ出づる悩み』『小さき者へ』など。
有島武郎の死因
残念ながら有島武郎は1923年(大正12年)に、編集者である波多野秋子と長野の別荘で縊死による自殺で亡くなりました。
波多野秋子は人妻であったため、当時の言葉でいう情死、すなわち心中事件として大きく報道されたのです。
有島武郎の辞世の句
その際に残された、有島武郎の辞世の句である短歌3首は以下のものです。
幾年の命を人は遂げんとや思い入りたる喜びも見で
修禅する人のごとくに世にそむき静かに恋の門にのぞまん
蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな
有島武郎の自殺の理由
有島武郎が心中自殺をした理由は、波多野秋子との夫とのトラブルが背景にあります。
有島武郎は編集者をしていた波多野秋子と親しくなり、それが夫に知られるところになりました。
波多野秋子の夫が脅迫
有島武郎の方は、妻を亡くしており独身でしたが、秋子の夫の波多野春房氏は激怒して、有島を追い詰めようとします。
当時は、婚外恋愛をした者は、姦通罪という罪に問われることとなっていました。
波多野氏の方は、それを前提に、「一千万円をよこせば、秋子を譲ってやる」といいますが、有島は「愛する人を金に換算することはできない」と返答。
波多野氏は「ならば姦通罪で訴える」として、二人は当然ながら決裂、有島はそのあと秋子と別荘に向かい、そこで心中自殺を遂げたという次第になります。
有島武郎の心中の短歌
二人が発見されたのはそれから日がたった一か月後のことで、斎藤茂吉が下のような歌を詠んでいます。
有島武郎氏なども美女と心中して二つの死体が腐敗してぶらさがりけり
-斎藤茂吉『石泉』
※斎藤茂吉の短歌については
有島武郎氏なども美女と心中して二つの死体が腐敗してぶらさがりけり解説
有島武郎の遺書
斎藤茂吉は精神科医で、患者の自殺にもたびたび接しており、そのため自殺には、ことさら苦い感情を持っていたようです。
二人の行為を美化するきらいはないと言いたいのですが、しかし、有島武郎が残した遺書には、下のように書かれています。
「愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思わなかった。おそらく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」
これを見ると、一首が有島の自殺の悲惨をことさらに取り上げたものとは言えない気がします。
有島の言葉を見ると、発見されないことを予測しており、それが有島の望みでもあったのです。
心中事件の反響
当時の世間一般の反応としては、二人の行動への非難は少なく、有島のファンの後追い自殺も出たということで、当然ながらこの事件の反響は大きかったようです。
しかし、母の居ない3人の子を残したという点では、有島の行為はやはり腑に落ちるものではありません。
『一房の葡萄』の作者である有島には、秋子と子どもと共に生きるすべを精いっぱい探してほしかったと思います。
きょうの日めくり短歌は、有島武郎の忌日「星座忌」にちなみ、有島武郎の辞世の句と、事件を詠んだ斎藤茂吉の短歌をご紹介しました。
それでは!
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