鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規の句の意味と背景の解説  

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鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規の句の意味と背景の解説

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鶏頭の十四五本もありぬべし

正岡子規が写生的に表した有名な句、この俳句の意味と良さは、作者の背景を知ることで理解できます。解説・鑑賞を記します。

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鶏頭の十四五本もありぬべし

読み:けいとうの じゅうしごほんも ありぬべし

作者と出典:

正岡子規

現代語訳

この部屋からみると、庭先の鶏頭が14、5本ばかり咲いているのが見える

「ありぬべし」品詞分解

・あり ラ変自動詞

・ぬ… 助動詞 推量の意を表す語とともに用いられて、その事態が確実に起こることを予想し強調する
「きっと…だろう。間違いなく…はずだ」の意味

・べし…推量の助動詞 「…にちがいない。きっと…だろう」の意味

切れ字

切れ字なし

季語

季語は「鶏頭」 夏の季語

形式

有季定型

 
 

解説

正岡子規の鶏頭の花を写実的に詠んだ句。

この句をめぐっては「鶏頭論争」として、評価が論議されたことがある。

「写生」で詠まれた俳句

正岡子規は俳句と短歌の革新を行い、新しい俳句と短歌の技法上の指針として「写生」とを提唱した。

「写生」とは、見たままを写し取るということが基本となる。

この句でも、正岡子規が鶏頭を見たそのままが、単純に、端的に記されている。

作者の状況と視点

正岡子規は結核のカリエスという病気で立つことができず、部屋の中から布団に寝転がったまま植物を窓から眺めてこの句を詠んだ。

同じ状況で植物が詠まれた短歌に「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」という短歌があるが、こちらも花の様子を、その「長さ」を中心に詠んだものである。

鶏頭の句と同じように、そちらも花が美しいとか、感動したといったことは一切表には出ておらず、この歌も評価に幅がある。

「十四五本」の意味

鶏頭の句では、「十四五本」と鶏頭の「数」だけにポイントを置かれて詠まれたように見える。

部屋の中から腹這ってみた鶏頭の群れ、子規は、それらの花を横になった視点で見るのみで、庭に出ることはもちろんできず、立って数えるということもできない。

だから、横から見た花の影の重なりから、「十四五本もありぬべし」「14、5本くらいあるだろう」と推測を述べるだけとなるのである。

この俳句の良さとは

この句は、鶏頭の花の美しさや、花の様子をつぶさに述べたものでもなく、花の色に感動したという句でもないので、いったいどこに面白みがあるのか疑問が湧いてくる。

しかし、作者正岡子規が見たままを「写生」として句に表したことで、作者の視点から、その時おかれた作者の状況が最もよく伝わってくる。

つまり、鶏頭を詠みながらこの句を詠んで浮かび上がってくるものは、鶏頭の様子ではなくて、この句を詠んでいる作者の方である。

俳句の背景を想像する

その上であらためて、次のような構図でこの俳句を想像してみよう。

庭に15本くらいの鶏頭が、夏の日差しを受けて赤く鮮やかに群れ咲いている。

その向こうにガラスある窓があり、その窓が開いている。そこに作者の男が膝をついて腹這ったまま鶏頭の方を眺めている。

鶏頭の鮮やかな色は一本でなく、群れて咲いているために、庭の中でも際立ったひとむらとなっており、いつになくたくさんある花の群れは、男の気持ちを庭の一角に引き付けるに十分である。

豪華にも見える庭の様子に「いったい何本くらい植えたのだろうか」と男は知りたくなる。

鶏頭は窓から見えるように植えてあるが、数が多いため、横一列ではなく、奥行きの重なりがあるように見える。

男は鶏頭がたくさんあるので、どのくらいか本数を知ろうとして、首を伸ばしたり、横に傾けたりするが全体を見ることはできない。

そして、「14本か15本くらいかなあ」とつぶやく。そのくらいあるからこんなに見事に見えるのだと、それで男は納得する

作者正岡子規の視点の実際

正岡子規が寝て過ごしていた部屋と庭の様子は、以下の画像を参考にしてください。

「ありぬべし」の意味

以上のような状況で自らの把握を述べたことがわかるのが、結句の「ありぬべし」である。

「ありぬべし」との「ぬ」「べし」の推量の強調は、普通の状況にある、他の作者では思いつかない表現である。

他の作者なら、逆に数にはこだわらずに単に鶏頭の色や形など、他の部分に着目したに違いない。

「十四五もありぬべし」はこの作者にとっての必然が生んだ句であった。

「ありぬべし」の意味を理解すれば、一句の全体がつかめるだろう。

作者自身の視点を直接にこのように伝える俳句は稀だとも思われる。

私自身のこの俳句の感想

この句を詠んだ時、最初は鶏頭の数にこだわった意味がよくわかりませんでしたが、「ありぬべし」の言葉の意味がわかると共に作者がこのように詠んだ理由がよく理解できました。寝転がったまま庭を眺めるのが唯一の楽しみだった作者は、やはり鶏頭のある庭の美しさに感動していたのだと思います。

子規庵のある場所

現在は休業中ですが、通常はいつでも見学ができます。




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