『海行かば』万葉集の大伴家持の原作 長歌全文  

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『海行かば』万葉集の大伴家持の原作 長歌全文

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『海行かば』は戦争中の歌謡として有名ですが、原作・原文は万葉集の大伴家持の和歌の詩句にあります。

大伴家持の万葉集の歌とその現代語訳、『海行かば』との違いをお知らせします。

『海行かば』の原作は大伴家持

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『海行かば』の原作は、万葉集の18巻4049大伴家持の短歌ではなく、長歌といわれる長い和歌です。

全文と『海行かば』の歌詞との関連を開設します。

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大伴家持の和歌原作

葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方よもの国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王おほきみの 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(かみあい)うづなひ 皇御祖(すめろぎ)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国(みをすぐに)は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして 武士(もののふ)の 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女(め)の童児(わらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官つかさ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだてて 丈夫の 清きその名を 古(いにしえ)よ 今の現をつつに 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言ことの官(つかさ)ぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩はき 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)のさきの聞けば貴み

作者と出典

大伴家持(おおとものやかもち) 万葉集寒18 4094

大伴家持『万葉集』の代表作短歌・和歌一覧『万葉秀歌』より

 

現代語訳と意味

上の長歌の現代語訳です。

 

葦原の瑞穂の国を天下りお治めになった天孫の御末の天皇が 幾代も天つ神の御領土として納めてこられた大御代ごとに治められる四方の国には 山や川が広大なので奉る御調の宝は 数え切れずあげ尽くせない。

しかしながら 聖武天皇が諸人に仏の道を勧められた大仏建立という事業をお始めになって 黄金が果たしてあろうかと思われてご心配になっていたところ(鶏が鳴く)、東の国陸奥の国の小田群の山に黄金があると奉上したので 御心を安堵せられて「天地の神祇も相賞で 皇の御霊も加護し 遠い昔にもこのように金を出したことを 我が御代にも再現したのでこの国は栄えるだろう」と神の御心のままに思いになり、諸々の官人たちを従えて 指図のままに老人も女子供もめいめいの満足するまでいたわっておやりになるので  このことが何とも片付けなく一段と嬉しく思って 大伴の遠い祖先のその名を大久米主と呼ばれて奉仕した職柄で「海を行くなら水浸しの屍、山を行くなら草生した屍となっても、大王のおそばで死のう。自分の身より何より」と誓ってますらおの汚れなき名を昔から今のこの世に伝えてきた家の子孫なのだ。大伴と佐伯の氏は先祖の名を継ぎ、大君に従うものだと言い伝えた名誉の家なのだ。

「梓弓を手に取り持って剣太刀を腰に取りはき 朝夕常に警護し、大君の帝の警備はわれらを置いて人はなかろう」とさらに近い決意を固める。 大君のかたじけない仰せが尊くあるので―出典:小学館日本古典文学全集『万葉集四巻」より

 

大伴家持が歌を詠んだ背景

この歌には詞書の題詞がついており「陸奥国に金を出だす詔書を賀(ほ)く歌一首」となっています。

東北地方で発掘するための黄金が出たことを聖武天皇が詔(みことのり)として発表、それに対するお祝いの歌です。

天皇の詔の中には大伴氏一族を天皇に使える家来として名指しで顕彰、「大伴氏(と佐伯さえき)氏)を格別に取りはからう」という部分があります。

聖武天皇が言った『海行かば」

また、大伴氏に言い伝えられる「海行かば」に続く1節を天皇自ら引用しました。

汝たちの親どもの言い来らく「海行かばみづく屍山行かば草むすしかばね大王のへにこそ死なめのどには死なじ」と言い来る人らとなも聞し召す。―出典:国立国会図書館

原文では「阿礼睡、汝塙祖哨云来久、海行波美痙屍、山行波草葬屍、王乃…」のところです。

大伴家持はそれに感激、天皇とその御代をほめたたえる歌を表そうとこの長歌を作った、それが原作の成立の背景です。

 

聖武天皇の詔と大伴家持の歌の対照

聖武天皇の詔と大伴家持の歌を比べてみると、家持は天皇の言葉を反復しながら歌の中に使っていることがわかります。

聖武天皇が詔の中に天皇の御代が代々継がれて続いて来たことを述べる「御代重ね」については、家持は「大伴氏の大久米主と呼ばれて天皇にお仕えした遠い祖先は」他、大伴一族が代々天皇に仕えてきたとして強調しています。

聖武天皇の「大伴氏と佐伯(さえき)氏を格別に取りはからう」(原文「又大伴・佐伯宿砺渡、常母云如久、天皇朝守仕奉」)という言葉に対応して、自分ばかりか佐伯氏のことも、「大伴と佐伯の氏は先祖の名を継ぎ、大君に従うものだと言い伝えた名誉の家」として取り入れています。

そして、

海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ

のところは前後を含め、以下のような意味になります。

大伴氏の大久米主と呼ばれて天皇にお仕えした遠い祖先は「海を行くなら水浸しの屍、山を行くなら草生した屍となっても、大王のおそばで死のう。後悔はしない」と誓って大伴の名を伝えてきた、大伴氏はそのような家なのです

この言葉は、単に自分の決意ではなくて、大伴一族の歴史を踏まえた言葉であることがわかります。

この部分を読むと、まず天皇の家臣として一族単位で登用され、大伴氏は長く天皇のそばにいたことを強調。

自分たちが天皇にいかに忠誠を尽くしてきたかを述べています。

そのあと、現在の時点で「梓弓を手に取り持って剣太刀を腰に取りはき 朝夕常に警護し、大君の帝の警備はわれらを置いて人はなかろう」というように、現在の話となるとより現実的となっています。

それと同時に「屍」というのは、大王のそばで死ぬのは直接に自分たちではなく、そのように誓った過去の祖先たちであり、「屍」はその歴史と永続性を象徴的に述べていることが推測できます。

「海行かば」「山行かば」の主語は大伴氏ですが、これはやはり、天地を統括すると思われていた天皇が行くべき「海山」どこへでもお供をします、という意味なのでしょう。

「大君の 辺にこそ死なめ」は続く「朝夕常に警護し、大君の帝の警備はわれらを置いて人はなかろう」と対照すると、天皇の警護官として離れないということと共に、一族を栄えさせたいという大伴一族の願望も重なると思われます。

 

大伴家持の歌と『海行かば』の共通性

大伴家持と原作の後の『海行かば』の歌詞部分は上に示した通り、

海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ

の部分がそのまま使われました。

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『海行かば』の歌詞を詳しく解説

「海行かば」の部分の訳

再度、その部分は前後を含め、詳しくは以下のような意味に訳せます。

大伴氏の大久米主と呼ばれて天皇にお仕えした遠い祖先は「海を行くなら水浸しの屍、山を行くなら草生した屍となっても、大王のおそばで死のう。後悔はしない」と誓って大伴の名を伝えてきた、大伴氏はそのような家なのです

つまり大伴氏がこのようにお仕えしてきたという、大伴一族の属性を伝えている部分です。

あくまでこれは部門として天皇の警護を任された大伴氏であるからこそ、自ら言い得る言葉であったでしょう。

大伴家持について

大伴家持 おおとものやかもち 717-785

奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。大伴旅人の子ども。越中守を初めて、中央・地方諸官を歴任、783年中納言となる。万葉集中歌数最も多く、その編纂者の一人と考えられている。繊細で感傷的な歌風は万葉集の好機を代表する歌人とされる。




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