万葉集

『海行かば』の歌詞を詳しく解説

『海行かば』は戦争中に作曲された歌として知られています。

『海行かば』の歌詞の現代語訳と意味と成立の背景について記します。

『海行かば』とは

 

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『海行かば』とは、戦時中に作曲された歌、歌謡の一つです。

ジャンルは「国民歌謡」とされており、戦争中は準国歌、第二国歌として、いろいろな場面で流されて広まり、よく知られた歌となっていました。

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原作は万葉集の大伴家持の長歌で、『海行かば』として使われたのはほんの一部です。

この記事では『海行かば』の歌詞と現代語訳を提示しつつ、作者大伴家持の原作との違いを比較していきます。

 

『海行かば』の作曲者

作曲者は信時潔。校歌・社歌・団体歌を1000曲以上作曲したといわれています。

東京音楽学校研究科器楽部、作曲部を卒業したクラシック音楽の作曲家です。

『海行かば』は信時潔が日本放送協会の嘱託を受けて1937年(昭和12年)に作曲されました。

 

『海行かば』は戦争時の歌

『海行かば』は大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として作られたものです。

現代では『海行かば』は戦争のため、詳しくは戦意高揚のために利用された歌としてとらえられています。

というのは、戦争時にラジオ放送の戦果発表(大本営発表)が玉砕を伝える際、必ず冒頭曲として流された他、学徒出陣や兵士出征の際に流されたり歌われたりした背景があるためです。

そのため『海行かば』はその他のプロパガンダや軍歌と同一視され、現代でも評価は低くなっているものの、原作は万葉集の和歌にあります。

 

『海行かば』を作ったのは大伴家持

『海行かば』の原作を作ったのは、大伴家持(おおとものやかもち)。

元号「令和」の語源ともなった梅花の歌序文を記した大伴旅人の息子です。

大伴家持はまた万葉集を編纂、正確には長期にわたる万葉集の編纂の一部または総括的にかかわった人物として知られています。

大伴家持の原作が詠まれたのは749年ですので、もちろん太平洋戦争にかかわりはありません。

その上で、『海行かば』の歌詞を見ていきましょう。

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『海行かば』の歌詞

『海行かば』の歌詞は下の通りです。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(む)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへり見はせじ
(長閑(のど)には死なじ)

 

『海行かば』の歌詞の現代語訳

海を行くならば 水浸しの屍(しかばね)

山を行くならば 草むした屍となっても

大君のおそばで死のう

わが身をかえりみるようなことはしない

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『海行かば』の原作

『海行かば』の原作は、万葉集の18巻4049大伴家持の和歌の詩句にあります。

短歌ではなく、長歌といわれる長い歌です。

大伴家持の長歌の原作は下の記事で読めます。

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『海行かば』万葉集の大伴家持の原作 長歌全文

万葉集の大伴家持の和歌の部分

『海行かば』の歌詞に採られた部分を示します。

(前略) 大伴の 遠つ神(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官つかさ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだてて (後略)

『海行かば』の歌詞は、大伴家持の和歌の詩句がそのまま使われていることがわかります。

それでは、この部分は大伴家持自身の作ったものなのかというと実はそうではありません。

実はこの言葉は天皇の詔(みことのり)の中にあり、天皇の言によると古くからの大伴氏の言い伝えなのです。

※全文はこちらで読めます。

『海行かば』万葉集の大伴家持の原作 長歌全文

大伴家持『海行かば』の成立まで

天平21年2月、東北地方で発掘するための黄金が出たことを聖武天皇が詔(みことのり)として発表しました。

その中で大伴氏ともう一人佐伯氏の一族の功績を名指しでたたえ、「大伴氏(と佐伯さえき)氏)を格別に取りはからう」といいました。

大伴家持はそれに感動、大喜びして「海行かば」の歌「陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌一首」を詠んで、天皇へのお祝いの歌としたのです。

聖武天皇の詔に『海行かば』

そして天皇の詔の中には

汝たちの親どもの言い来らく「海行かばみづく屍山行かば草むすしかばね大王のへにこそ死なめのどには死なじ」と言い来る人らとなも聞し召す。―出典:国立国会図書館

という部分があることが見て取れます。

原文では、「阿礼睡、汝塙祖哨云来久、海行波美痙屍、山行波草葬屍、王乃」のくだりです。

『海行かば』の本当の意味

この言葉は部門として皇室に仕え、天皇の警護をする立場の大伴氏の誓いの言葉、あるいは一族のスローガンのようなもので、それを聖武天皇が引用をしたのです。

天皇の警護をする、いわば古代のシークレットサービスのような立場の人であれば、「大王のへにこそ死なめのどには死なじ」というのもうなづけます。

そして、この言葉を引用した聖武天皇の黄金発掘を祝う12、13詔の中から、またそれを家持が栄誉ある一族の言葉として「陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌一首」の中に反復したのです。

天皇が自分の一族の言い伝えをその詔の中に引いていることを、家持は生涯の感激を持って受け止めたに違いありません。

「かへり見はせじ」と「長閑には死なじと」の2つ

戦時の『海行かば』の歌詞は、「かへり見はせじ」と「長閑(のど)には死なじ(平穏無事には死なない)」との両方が記されています。

前者は家持が歌に詠んだ方の「かへり見はせじ」であり、後者は聖武天皇の詔の中の言葉「長閑(のど)には死なじ(平穏無事には死なない)」となり、実際戦時中は、このように唱和して詠われたようです。

以上、大伴家持と聖武天皇の2つのテキストを対照しながら、『海行かば』の成立をたどりました。

原作の成立と背景には『海行かば』と言葉は同じでも違う点が多くありますが、紀元600年代の歌ですのでもちろん同じであるはずはありません。

あくまで文学作品として本来の位置に立ち返って鑑賞していただけば、この歌の本来の良さが伝わると思います。




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