あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む 大伴旅人  

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あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む 大伴旅人

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あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む

大伴旅人の万葉集の代表作の一つ「酒を讃むる歌」より代表作和歌の現代語訳と意味を解説、鑑賞します。

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大伴旅人「酒を讃むる歌」全13首『万葉集』

万葉集の大伴旅人「酒を讃むる歌」「讃酒歌(さんしゅか)」は酒を詠んだ連作13首のタイトルです。

「酒を讃むる歌」は、酒という楽しみについて述べながら一面では悟りともいえるような、一種の「思想」をも表した作として、万葉集においては異色の作と言われています。

また、13首の連作としても鑑賞しうるその点からも、大伴旅人の代表作の一つとして読み継がれているものです。

「酒を讃むる歌」代表作3首

13首の中で、特に味わっていただきたいもの、よく引用される秀歌と佳作は下の作品です。

験(しるし)なきものを思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし 338

なかなかに人とあらずは酒壷に成りにてしかも酒に染(し)みなむ 343

この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ 348

 

※全部の歌の現代語訳は下の記事に

あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む

読み:あなみにく さかしらをすと さけのまぬ ひとをよくみば さるにかもにむ

作者と出典

345 作者 大伴旅人

現代語訳:

ああ見苦しい 懸命ぶって酒を飲まない人を見ると、猿にでも似ているようだ。

解説

「酒を讃むる歌」の一連を含めて大伴旅人の和歌は多く漢文や漢詩の影響を受けており、この一連も『魏志』に着想を得たものと言われています。

現世より遠ざかりいっそ酒を入れる壷になってしまいたいという厭世思想をあらわした下の作品もあります。

なかなかに人とあらずは酒壷に成りにてしかも酒に染みなむ

自分自身の願望だけではなく、飲まない人に対して詠まれたのが、今回取り上げる「あな醜さかしらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似る」です。

「あな醜」の「あな」

「あな醜」の「あな」は「おや」というような間投詞です。

続く「醜」(みにく)に酒を飲まない人を見下そうという姿勢が初句から現れています。

「さかしらをすと酒飲まぬ」の意味

「さかしらをする」というのは賢いふりをすることですが、分別のある人、きちんとした振る舞いを指します。

本当は賢くないのに賢いふりをして酒を飲まない、そういう人を馬鹿にしているのですが、本当は酒を飲む飲まないに関わらず、「賢ら」とは現世を渡る知恵を持った人たちを指すのでしょう。

「猿」は万葉集に一首のみ

「そのような人たちが猿に見えるよ」というのですから、賢い人、飲まない人、この世をつらいとも思わずうまく渡り歩く知恵を持った一般の人たちへの痛烈な悪罵です。

なお、万葉集に「猿」を詠んだものは、この一例だけです。

相手を醜い猿とすることで、痛烈に見下しているのですね。

作者の思い

この歌は、酒を飲むことを良しとするだけではなくて、現世が楽しくなく幸福でもないと述べることに主題があります。

壷になろうとしたり、虫になろうとしたりすることでつらい現実からの逃避が述べられているのです。

斎藤茂吉の一首評

一種の思想ともいうべき感懐を詠じているが、如何に旅人はその表現に自在な力量を持っているかが分かる。その内容は支那的であるが、相当に複雑なものを一首一首に応じて毫も苦渋なく、ずばりずばりと表わしている。その支那文学の影響については先覚の諸注釈書に譲るけれども、(かえりみ(れば此等の歌も、当時にあっては、今の流行語でいえば最も尖端的なものであっただろうか。けれども今の自分等の考から行けば、稍(やや)遊離した態度と謂うべく、思想的抒情詩のむつかしいのはこれ等大家の作を見ても分かるのである。―出典:『万葉秀歌』より

 

この歌の本歌取り

この歌の本歌取りをしたものに、正岡子規の下の作品があります。

世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くひて猿にかも似る

この歌の意味は「世の人は利口ぶって酒を飲む。柿ばかり食う私はさぞかし四国の山猿に似ているかもしれない」というものです。

「さかしらをすと酒飲みぬ」と「猿」を上手に取り入れて、自分自身の出身「四国猿」とも重ねているのです。

解説記事:
世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くひて猿にかも似る 正岡子規

大伴旅人とは

大伴 旅人は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿・歌人。

727年頃、大宰帥(だざいのそち)として、筑紫に赴任。「梅花の歌」はそこで詠まれた。

任地に着いたその年の夏、妻を失い、730年に、大納言となって上京するまで、筑紫の地で歌作に励んだほか、特に酒を讃え、遠い九州で都を思う望郷の念を詠んだ歌など、知識人らしい才能を発揮する歌をはじめとして、帰京の翌年、67歳で亡くなるまで、たくさんの歌を残した。




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