世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くひて猿にかも似る
正岡子規の代表作ともいわれる有名な短歌にわかりやすい現代語訳を付けました。
各歌の句切れや表現技法、文法の解説と、鑑賞のポイントを記します。
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読み:よのなかは さかしらをすと さけのみぬ あれはかきくいて さるにかもにる
作者と出典
正岡子規
現代語訳
世の人は利口ぶって酒を飲む。柿ばかり食う私はさぞかし四国の山猿に似ているかもしれない
句切れと表現技法
・万葉集の歌の本歌取り
・3句切れ
・対比
文法と語句の解説
・さかしらをす…賢そうにする
・あれは…人から見た自分自身を指す
・猿にかも似む…「む」は推量の助動詞 「かも」は体言や活用語の連体形などにつく係助詞
解説
万葉集の大伴旅人の「酒を讃むる歌」和歌「あな醜さかしらをすと酒のまぬ人をよく見ば 猿にかも似む」の本歌取りの歌。
※本歌についてはこちらから
大伴旅人「酒を讃むる歌」
大伴旅人の本歌の意味
元の歌の意味は、
あな醜さかしらをすと酒のまぬ人をよく見ば 猿にかも似む
「ああ見苦しい 懸命ぶって酒を飲まない人を見ると、猿にでも似ているようだ」
というもので、酒を飲まない人を軽蔑する意味がある。
ちなみに万葉集で「猿」を詠んだものはこの一首とされる。
正岡子規の歌の意味
正岡子規は結核に罹患、下半身の神経に支障が生じて歩行が困難となっており、ほぼ寝たきりの状態で日々を過ごしていたため、当然飲酒はできなかった。
自分は酒を飲まない、飲めないところから大伴旅人の歌を本歌取りしている。
自分は酒を飲まない立場で詠んでいるので、酒を飲む人と飲まない自分の対比が主軸である。
本歌は「賢らをすと酒飲まぬ」すなわち、「利口ぶって酒を飲まない」と非難をするが、正岡子規は「さかしらをすと酒のみぬ」 逆に酒を飲む人を「利口ぶって」いると揶揄している。
この酒を飲む人には、万葉集の主要な歌人である本歌の作者大伴旅人も含まれるだろう。
そして、世の人の飲んでいるのが酒であるのに対して、自分が取っているのは酒ではなく「柿」であると提示する。
世の人と対置するのが作者自身であり、酒に対して柿を置くという構図になる。
「猿にかも似む」
続く結句の「猿にかも似む」の部分は、本歌の句をそのまま利用している。
本歌では、酒を飲まない人が「猿にかも似む」であるが、つまり、作者は自分は酒を飲まないので、その猿なのだという。
この猿には、単なる猿というだけではなく、「四国猿」の意味がある。
正岡子規にはこの言葉を使った下の歌がある。
世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子猿ぞわれは
この四国猿は四国の猿を指すのではなくて、四国の人をあざけっていう語である。
「四国猿」の語源はわからないが、辞書では「人まねばかりするからとも、野菜などの行商用の竹であんだざるを四国から上方へ売りに出したところからともいう」とされている。
子規は地方出身者であることの卑下に見えるこの歌を読みながらも、四国の士族出身であることをひそかに誇りにしていたとも主wれる。
自分を猿という作者の思い
いずれにしても「猿」は大伴旅人の歌の中の「猿」と「四国猿」の両方の意味合いを込めた言葉で、結句を「猿にかも似む」とするのがこの歌の結論となる。
歌をそのまま読めば卑下のようだが、作者の思いはいくらか複雑である。
子規は結核で明日をも知れない命であり、しかも寝たきりで歩行もかなわなかった。
今の言葉でいうと障害者の立場であり、病人であるから明らかに世の人と比べれば自分は劣っている。
「猿」にはもちろんそのような気持ちもあるだろう。
皆がたしなむ酒も飲まないし、普通の日常生活からは遠ざかった寝たきりの病人であるとして、自らを柿を喰う山猿に例える。
しかし、子規は寝たきりであっても他の人のできないことを仕遂げようとする大望を持ち、かつ文学者として有用な人物であった。
新聞の執筆や短歌や俳句を通して、日本の詩歌を革新することで、本歌の大伴旅人に並び、「世の人」を超えるような大きな自負が子規にはあった。
地方出身者であって、しかも病人である。それでいながら、新聞に寄稿、多くの信奉者と門弟を抱えた指導者である正岡子規は、それらのハンディを越えたところにある自分の価値を信じていた。
それだからこそ、正岡子規は重病であっても生きながらえたのであろう。
正岡子規の他の歌
正岡子規の短歌代表作はこちらの記事に