憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを 作者源俊頼(みなもとのとしより)の百人一首71番の和歌作品の現代語訳と、解説・鑑賞を記します。
源俊頼は歌論書『俊頼髄脳』を記した 院政期を代表する大歌人です。
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憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものをの解説
読み:うかりける ひとをはつせの やまおろしよ こいすちょう わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもいそめしか
作者
源俊頼(みなもとのとしより)
出典
千載集 2-708
百人一首 71
現代語訳
私につれなかったあの方の心が変わるようにと初瀬の観音様に祈りはしたが、初瀬の山おろしよ、お前のようにその冷たさが「ひどくなれ」とは祈らなかったのに
語句
それぞれの意味解説と品詞分解を行います
うかりけるの品詞分解
漢字は「憂かりける」。基本形「憂し」の形容詞の活用形に過去の助動詞「けり」がついたもの
人
思っている相手を指す。女性
初瀬
「初瀬」は大和国の歌枕。
現在の奈良県櫻井市にあり、観音信仰で有名な長谷寺がある。
山おろし
「山おろし」は山から吹き下ろしてくる激しい風のこと。
はげしかれの品詞分解
形容詞基本形「はげし」の命令形。
「はげしくなれ」の意味。
祈らぬものを
「ぬ」は打消しの助動詞
「ものを」は逆接の確定条件を表す接続助詞。
「祈らなかったのに」の意味で、一首のポイントとなる
句切れと修辞法
- 3句切れ
- 字余り
- 擬人法
※解説は
和歌の修辞法をわかりやすく解説
一首の鑑賞
百人一首71番にとられた源俊頼の代表作品の一つ。
詞書
「権中納言俊忠家に恋の十首歌よみ侍(はべり)ける時、祈れども逢はざる恋といへる心をよめる」
との詞書があり、題詠の歌であることがわかる
現代語訳は
藤原俊忠(ふじわらのとしただ 72番歌の作者)の家で恋の十首を読んだ時に、「祈っても逢瀬がかなわない恋」という題でよんだ
との意味。
歌の特徴
「憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを」
この歌の特徴はまず比喩が卓抜している。
山おろしは人の比喩
山おろしの風はその寒さから相手の冷たい態度のことで、はげしさというのは、相手のつれないそぶりが作者の心に及ぼす影響の強さを言うのだろう。
「冷たい」「激しい」特質を備える初瀬の山おろしの描写を人に重ねてうまく取り入れている。
山おろしへの本来の呼びかけは相手
「山おろしよ」の呼びかけは、山おろしを人と見立てる、一種の擬人法であるが、呼びかけの相手は本来は女性の思い人本人であるはずである。
気ままに吹き荒れる山おろしが相手の姿と現在の関係を示唆する比喩となっているのだが、それでも相手に呼びかけずにはいられない、作者の恋心がうかがえる。
俊頼の特徴の一つは、外にある事物や風景を自分に引き寄せて表現の手段として用いるところにある。
この初瀬の山おろしは本来恋愛には関係がないが、作者の恋愛の相手とその状況にぴったりのものとして取り入れられているのである。
結句「ものを」の効果
結句の「はげしかれとはいのらぬものを」の詠嘆と口ごもったようないい方も、作者の内心のつぶやきを聞くようでおもしろい。
「山おろしよはげしかれ」は呼びかける相手も呼びかけの内容もきわめて明瞭であり、歌の「陽」あるいは「明」の部分である。
しかし、「いのらぬものを」の否定の述懐は「陰」そして「暗」に転じている。
この転換と変転もたいへん面白い部分と言える。
一首の構成
一首の構成を見てみると「はげしかれ」の主語は「人」である。
なので、「憂かりける人をはげしかれ(と祈る)」のが本来の語順であって、「初瀬の山おろしよ」はその間に挟まれている挿入句風の部分である。
挿入句の意味
なので「憂かりける人を初瀬の」のつながり方は、けしてスムーズではなく、読み手の注意を引く部分である。
「人」と「山おろし」は本来関連がない語だが、人が山おろしに置き換えられていて、人への呼びかけが山おろしへの呼びかけに転換されていることがわかるだろう。
本来なら「つれなくしないでください」というのは、人に対して言うべき言葉であるが、それが山おろし宛ての言葉となってあえて遠回りをさせているのである。
山おろしを取り込むことで相手のつれなさという抽象性が、視覚化されて具体化される効果がある。
「祈らない」の真意
「祈らぬものを」の結句は、「祈らない」との否定形だが、作者が恋の成就を切望して祈る気持ちであることは当然である。
これは単に「祈っている」というのではなくて、「祈っていはない」との微妙な迂遠な表現で織り込まれているため、読み手の私たちにも伏線の事実として取り込まれることになっている。
「陰陽」の陽としてはっきり示されているのは、「山おろしよはげしかれ」の部分であるが、これは作者の望んでいることではない。
むしろ「祈らぬ」として否定形で示されている「祈る」行為にこそ、作者のいちばん言いたいことがある。
「祈らぬものを」と表現されていても、歌の真意は「相手が私に優しくしてくれて恋愛が成就すること」を懸命に祈る、祈りの歌なのである。
これがもし「あの人が私に冷たくしないように初瀬の観音様に祈ったのです」というそのままの歌であったとしたら、事実はこの通りであって内容もわかりやすいのだが、面白みはまったくなくなるだろう。
通り一遍の修辞や技巧ではなく、たいへん複雑な作者の冴えがうかがえる作品なのである。
この歌の藤原定家の評
藤原定家は
これは心深く、詞心にまかせて、まなぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじきすがたなり
と評している。
「内容に深い味わいがあり、言葉遣いは自由自在、まねようとしても映画卓、手の届かない類の作品の完成度」
と俊頼の技巧を絶賛した。
源俊頼の他の和歌
源俊頼について
源俊頼(みなもとのとしより)
1055-1128
平安後期の歌人。金葉和歌集の撰者。
父から和歌の手ほどきを受けて各歌合に出席。
堀河院歌壇の中心人物として活躍。
天治元年(1124)以前、白河院の命を受けて金葉集を編纂し、当時の歌壇の中心人物となった。
歌論書『俊頼髄脳』も代表作の一つ。