ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
作者永井陽子の教科書掲載の短歌の解説、鑑賞を記します。
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはりの解説
読み:ひまわりの あんだるしあは とおけれど とおけれど あんだるしあの ひまわり
作者と出典
永井陽子 歌集『モーツアルトの電話帳』
現代語訳と意味
現代語で読まれた短歌ですので、訳はそのままで。
意味は読み手によって様々な意味が考えられます、ひとつの例としての全体の意味は
向日葵が咲く地のアンダルシアはほんとうに遠いけれども、それでもアンダルシアの向日葵はそこに咲いている
注:意味について詳しくは以下の「解説」に記載しています。
句切れと表現技法
- 文語定型
- 反復
- 句切れなし
- 句またがり(句割れ)
- 体言止め
解説
現代の歌人、永井陽子の教科書掲載の歌。
朝日新聞の「うたをよむ」コラムに紹介されました。
関連記事:
ゴッホでもミレーでもない僕がいて蒔きたい種を探す夕暮れ【解説】岡野大嗣
歌の意味
「うたをよむ」においてのこの歌の解説は
短歌という定型詩の持つ豊かな音楽性を教えてくれる (出典:https://www.asahi.com/articles/DA3S15784950.html)
という説明でした。
また、意味に関しては
伝達すべき意味はほとんどない。(出典:http://petalismos.net/tag/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%99%BD%E5%AD%90)
と解説しているサイトもあります。
歌集の歌人の岡井隆氏の解説文には
ただ歌の中を流れる音楽のやうなものに耳を傾けるだけでいいのかも知れない
と記されています。
一首の鑑賞
この歌のおもしろさは短歌の意味ではなくて、歌を読んだ時の感じやそこから受け取る印象にあるといえます。
「ひまはり」は、「ひまわり」の文語形の表記法で、読みは「ひまわり」に同じです。
アンダルシアというのは、スペインの地名です。
この歌人は音楽のモチーフが大変多いため、「アンダルシア」はクラシックギターの曲のタイトルにも用いられる語として知られています。
一首の構成は3語
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
一首は、「ひまはり」と「アンダルシア」「とほけれど」の3語からなっています。
句またがりと句割れ
下句の
とほけれどアンダルシアのひまはり
は7文字・7文字になるところなので
とほけれどアン/ダルシアのひまはり
として、「アンダルシア」が途中で切れている「句割れ」です。
同時に「アンダルシア」は4句の終わりの2文字、と5句の頭の4文字に辺り、これを「句またがり」という技法です。
句またがりの効果
句またがりの効果は「とほけれどアンダルシアのひまはり」の部分に、提携の57577とは違った音調、リズムを生み出しているというところにあります。
「アンダルシア」を「アン」で区切って詠む人はいないので、「アンダルシア」は一息に詠まれます。
すると、それに伴って「とほけれどアンダルシアのひまはり」もひとつながりに詠まれるので、歌の韻律はあたかも「575+14」のようになります。
元々が77となるところですので、「破調」となるため一種の強調が生じます。
この部分は今までの57577とは違う、個性的なリズムを成すこととなるのです。
短歌の調べ
もう一つ、作者の歌にたびたび指摘される音楽性は「アンダルシア」という音にもみられます。
特に「アン」の部分の弾力のある調べ、濁点である「ダ」は一種の音調の特徴を成すところです。
どうしてこのような効果が得られるのかというと、アンダルシアは外来語であるからです。
また、一首を見た時に感じはなく、ひらがなとカタカナだけの表記となっているので、「アンダルシア」の部分は視覚的な意味でもアクセントがみられるのです。
緑色丸い点はア行の音です。
一首の言葉の語順
どこそこに咲いている向日葵」という場合は、「アンダルシアのひまはり」という方が一般的です。
ただし、この歌では初句は「ひまはりのアンダルシアは」となっています。
向日葵が咲くアンダルシアという場所を言って、アンダルシアの地が遠い というのが、この歌の唯一の「主語+述語」です。
「ひまはりのアンダルシアは」の「の」の部分には「向日葵が咲くアンダルシア」という意味合いの省略があります。
結句の「アンダルシアのひまはり」は、「アンダルシア」という土地ではなくて、「ひまはり」そのものがフォーカスされています。
「とほけれど」の反復
「とほけれどとほけれど」は2度繰り返されていますが、「とおい」というのは一度聞けばわかります。
それを2度繰り返すことで、遠いことが強調されるのはもちろんですが、「とほけれどとほけれど」と2回にすることで、この部分を読むときの長さが、0.数秒、または0.0数秒伸びます。
それによって、読み手の浮かべる向日葵の置かれる距離がその時間分だけ先に延びます。
人は時間によって距離を測ることを日常的に行っています。
「とほけれど」のような二度繰り返しを使わない場合には、間に意味の薄い言葉を入れて、「読む時間」を伸ばすこともありまr酢。
これは特に名称はありませんが、短歌で使われる技法ともいえない表現技法のひとつです。
この歌の意味
以上を踏まえた上で、この歌の意味をもう一度考えてみると、読み手にアンダルシアという魅力的な印象を持つ音の含まれる地名に咲く向日葵を思い浮かべてもらうということがこの歌の目的です。
「作者がこのように感じた」というようなことを並べたというだけではありません。
短歌というのは思ったことだけを詠んだだけで成り立つような、そのように甘いものではないことがわかると思います。
語順と語の長さ、語の表記を含め、この歌が読み手に与えるものを十分に吟味をした上で作られているのです。
「アンダルシアの向日葵」の意味するもの
しかも「アンダルシアの向日葵」には何のバックグラウンドとなる意味もありません。
このブログでは他に、「ウクライナの向日葵」が詠まれた折句の歌を紹介したことがあります。
関連記事:
ウクライナの短歌 句頭に「うくらいな」を詠み込む折句の技法 朝日歌壇
こちらの場合の向日葵には反戦の思いが込められています。
人が発信する言葉には「意味がある」と思って読まれるのが普通ですが、この歌ではむしろ意味がないことが「意味」と言えます。
そこから茫漠とした虚無感を感じる方もいるかもしれません。
この歌の感想
この短歌の私の感想を記しておきます。
向日葵はたった一輪、遠く離れたアンダルシアの地に人が通らないような原野に咲いていると想像されます。
向日葵が一つだけだと思わされるのは、使われていることばが3語だけだからです。
反復される3語の配置によって短歌が構築されるというのは驚くところですが、読み手の視点は真っすぐに直線的に向日葵に注がれますが、それ以上どこかに行くということはありません。
回文を思わせるような歌は最初と最後が同じ地点で終結しており、花が美しいという描写もないため、向日葵との感情的な接点もありません。
この歌は緊密な構成を持ちながらも、そもそもコミュニケーションを前提としておらず、何もないということの不条理と虚無を表しているかのようです。
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永井陽子プロフィール
永井陽子(ながい ようこ)1951年4月11日 - 2000年1月26日
愛知県瀬戸市城屋敷町に生まれ、短歌結社「短歌人」同人。
1978年に『なよたけ拾遺』(短歌人会刊)で第4回現代歌人集会賞受賞。