栗の短歌 万葉集と近代短歌から  

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栗の短歌 万葉集と近代短歌から

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栗は秋の実りを実感させる植物の一つ。

きょうの日めくり短歌は、栗を詠んだ和歌と短歌をまとめてご紹介します。

栗の短歌

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栗は、ブナ科クリ属の木の一種で、食用になる部分は栗の種の部分で、ナッツの一首とされています。

山に自生するものはシバグリかヤマグリと呼ばれる種類になり、身近な植物であるため、古来から和歌や短歌に詠まれています。

万葉集の栗の和歌

万葉集の栗の短歌でいちばん有名なのは、山上憶良の作品があげられます。

これは短歌ではなくて長歌に分類されます。

山上憶良の「栗食めば」

瓜食(うりは)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
安眠(やすい)し寝(な)さぬ

読み:うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしぬはゆ いづくより きたりしものそ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ

作者と出典

山上憶良 やまのうえのおくら
「万葉集」803

現代語訳

瓜を食べると、子どものことが自然に思われて来る。栗を食べると、一層思われて来る。

いったい(その面影は)どこからやってきたものなのだろうか。近々と目に迫って現れて、とても安眠できない。

解説記事:
瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ 山上憶良 子らを思う歌

三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが

読み:みつぐりのなかにむかえるさらしいの たえずかよわん そこにつまもが

作者と出典

よみ人知らず 万葉集巻9-1745

意味

那賀の村に流れていく曝井の水が絶えないように、私も絶えず通うだろう。そこに住む妻がいるのなら

解説

万葉集の短歌の栗の歌。

「三栗」というのは一つのいがの中に実が三個入っているものの中央であるという意味から、「那賀」という地名にかかる枕詞とされています。

栗は直接に関係がないのですが、栗のいがの中の実の様子が捉えられている枕詞といえます。

島木赤彦には、この枕詞を用いた

三つの中村憲吉吉備の國の冬の峽ゆ歌を送らず

の歌もあります。「中村」の「中」に続けたのです。

以下は近代短歌の栗の歌です。

関連記事:
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近代短歌の栗の歌

近代短歌の栗の歌も、栗の実りや見た目だけでなく、作者自らが秋の食材として楽しんでいる歌も多くあります。

しもふさの節はよき子これの子は虫くひをあれにくれし子

作者:正岡子規

正岡子規が、弟子の長塚節が栗を送ってくれたことへのお礼の歌なのですが、「虫食ひ栗」とはどういうことなのでしょうか。

汽車で送られている間に虫に食われてしまったという説もありますが、「真心の虫喰ひ栗をもらひたり 」の俳句もあるのでその通りに思っていたのでしょう。

目にも見えず渡らふ秋は栗の木のなりたる毬のつばらつばらに

作者は長塚節

秋という目に見えない季節の到来を栗の伊賀を視覚的にとらえることで表しています。

節の住んでいた茨城県は栗の名産地でもあります。

けふもかも秋雨寒しあかあかと爐の火を焚きてやくわれは

作者と出典:

古泉千樫 『靑牛集』

昔は焼き栗は茹でるよりも栗の調理方法として多かったようです。

農村では野焼きは普通のことだったので、その日でも芋や栗を焼くのは楽しみでもあったのでしょう。

小山田を刈るひと見れば時じくのをぞひろふ稲のなかより

作者と出典:

中村憲吉 『軽雷集以後』

「時じく」はいつでもあるという意味で、ちょうど栗と稲とが重なっている季節だったのでしょう。

秋晴のひかりとなりて楽しくも実りに入らむも胡桃も

作者と出典:

斎藤茂吉「小園」

斎藤茂吉の栗の詠まれている歌でもっともよく知られている歌。

作者は山形に疎開中で、山の実りを実感しています。

「冬の夜のふけしづむころみちのくの村にし居りて食むわれは」も山村での生活を詠っています。

 

以上、きょうの日めくり短歌は秋の栗の歌をご紹介しました。




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