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瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ 山上憶良 万葉集 子等を思う歌

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「瓜食)めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ」で始まる山上憶良作の短歌、万葉集「子等を思う歌」の、長歌部分の現代語訳と解説、鑑賞のポイントを掲載します。

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山上憶良「子等を思ふ歌」

瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
安眠(やすい)し寝(な)さぬ

山上憶良の短歌のうち、子どもの短歌として、もっとも有名な一首です。

「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」は、長歌のあとの「反歌」の短歌として置かれているものです。

「子等を思う歌」の構成

この長歌と短歌の構成は、「序文-長歌-反歌(短歌)」となっており、長歌と反歌は、漢文風のやや長い序文の後に置かれています。

この記事では、その長歌の部分の解説をします。

短歌と序文については、下の記事をご覧ください。

「子等を思ふ歌」長歌の解説

瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
安眠(やすい)し寝(な)さぬ

作者と出典

山上憶良 やまのうえのおくら
「万葉集」803

現代語訳

瓜を食べると、子どものことが自然に思われて来る。栗を食べると、一層思われて来る。

いったい(その面影は)どこからやってきたものなのだろうか。近々と目に迫って現れて、とても安眠できない

語の解説

・瓜…まくわうり
この時代には、正倉院の文書にも「黄瓜」の言葉があり、当時の瓜は、外皮が黄色だったと思われる

・子ども…「ども」は複数を表す接尾語

「子等」の「等」も複数を表す

例:
あみの浦に 船乗りすらむ 娘子(ヲトメ)が玉裳の裾に潮満つらむか   柿本人麻呂・万葉集巻一・40

・思ほゆ・偲(しぬ)はゆ…「ゆ」は自発を表す

・いづくより…どんな宿縁で。仏典にある表現と思われる

・眼交(まなかい)…「目の前に」

・もとな…むやみに やたら

・安眠しなさぬ 安眠させない
「なす」は「寝ぬ」の使役動詞 「ぬ」は打ち消し

 

「子等を思ふ歌」長歌の解説

この短歌には、下のような漢文の序文がついています。

子らを思へる歌一首并せて序

釈迦如来(しゃかにょらい)の、金口(こんく)に正に説(と)きたまはく「等しく衆生(しゆうじよう)を思ふことは、羅候羅(らごら)の如し」と。又説きたまはく「愛しみは子に過ぎたることなし」と。至極(しごく)の大聖(たいしやう)すら、尚(な)ほ子を愛したまうこころあり。況(いは)むや世間(よのなか)の蒼生(あをひとくさ)の、誰か子を愛せずあらめや。

上の序文のポイントは、「釈迦、すなわち至極の聖人ですら、なお子どもを愛する心がある。まして我々普通に人間は誰が児を愛しまないでいられようか」というところです。

おそらく、山上憶良は、仏典でこの部分に注目していたと思われます。

当時の、これらの仏教に関連する書物は、中国から伝わったものであり、漢文で書かれていました。

つまり、日本語のものを日本語で書き直すのではなく、漢文で経に書かれていた釈迦の言葉を、歌の上にも表したものが、上の歌となります。

山上憶良の仏典の言葉を使った歌は、万葉集の他の歌にも見られます。

子どもへの「愛」は「愛執」

この歌における特色は、子どもへの愛が、「愛情」ではなくて、愛執といった種類の愛情であるということです。

「尚(な)ほ子を愛したまうこころあり」「誰か子を愛せずあらめや」の、「聖人でも子供を愛する心は変わらない」「子を愛さないでいられようか」の愛は、聖人である釈迦が主語なので、ごく普通の愛情として詠めますが、長歌の方では、この愛情の趣はいくらか変わってきます。

「いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて安眠(やすい)し寝(な)さぬ」

(訳)いったい(その面影は)どこからやってきたものなのだろうか。近々と目に迫って現れて、とても安眠できない

をみると、この子どもは、作者の意に反して、眠ろうと思っても気がかりで眠れない。まるで、恋愛の対象で忘れられない相手でもあるように、面影として迫ってくるいくらか特異な存在として描かれていることに気がつきます。

「瓜を食べても栗を食べても」何を見ようが聞こうが、子どものことが思われるというのはともかく、忘れようとしても、幻のように迫ってきて離れず、眠れないほどだ、というのは、まるで子どもが困った存在であるかのようにとらえられています。

つまり、単にほのぼのとした子への愛をうたったものではなく、仏教でいう煩悩や、愛執というに近い心境です。

ですが、そのような状態を困ったことだとして、俯瞰して自分をながめているというのではなく、もっと主観的で揺るがしがたいものとなっています。

そしてこの後の短歌においては、「子どもは銀にも金にも勝る宝である」という転換をなして終わります。

つまり、説明ともいうべき歌ではない散文の序文があり、次に長歌があり、短歌があるというのがこの歌の構成なのです。

斎藤茂吉のこの長歌の評

斎藤茂吉は、『万葉秀歌』の中で、この歌についてはたいそうほめて、下のように言っています。

この長歌は憶良の歌としては第一等である。簡潔で、飽くまで実事を歌い、恐らく歌全体が憶良の正体と合致したものであろう。

終わりに

あえて長歌と反歌である、短歌を分けて書いていますが、この歌の短歌の方の記事もご覧ください。

山上憶良の作品は引き続きご紹介していきます。

皆様も折に触れて作品に触れてみてくださいね。





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