ささなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 平忠度の有名な和歌、高校の教科書や教材にも取り上げられている歌の代表的な短歌作品の現代語訳と句切れと語句を解説します。
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読み: さざなみや しがのみやこは あれにしを むかしながらの やまざくらかな
作者と出典
平忠度 (よみ人しらず)「千載集」
現代語訳
志賀の都は荒れてしまったが、山の桜だけは昔ながらに美しく咲いているのだなあ
句切れと修辞
- 初句切れ
- 枕詞
- 掛詞
短歌の句切れを解説 短歌の用例 寺山修司の短歌から
語と文法
語と文法の解説です
- さざなみや…志賀にかかる枕詞。「さざ波」に詠嘆の終助詞「や」をつけて強調している
- 志賀の都…滋賀県大津市を指す
- 「かな」…詠嘆の終助詞
修辞法
修辞は主に3つの技法が用いられいます。
初句切れ
「さざなみや」で切れる
枕詞
さざなみ⇒志賀
掛詞
- 昔ながらの…「ながらの」の「ながら」は「(そっくりその)…のまま」の意味で、山の名「長等山」の掛詞となっている
掛詞の詳しい解説は
解説と鑑賞
平忠度の有名なエピソードのある和歌。
藤原俊成によって千載集に採録されたが、作者名は「よみ人しらず」とされている。
詞書
千載集では「故郷花といへるこころをよみ侍りける」との説明があり、「平忠度集」には「為業(ためなり)歌合に故郷花を」の説明がある。
和歌の意味
愛着のある都の盛衰に桜の花の華やかさを対照させ、作者の哀感を美しく表している。
その桜もまた、華やかな開花は一時でありやがては散ってしまう。
その移り変わりに、平家一族としての自らのありようを重ねて表している。
桜という普遍的な対象を用いることで、人為ではない、運命としての平家の衰退を作者が受容していることが感じられる。
和歌を託した平忠度
忠度は、平清盛の異母弟、藤原俊成に和歌を習ったが、平家一門は源氏との戦いに負けて、都落ちとなった。
その際、忠度は俊成の屋敷に赴き、
「いつか世が平和になったときには勅撰集が作られるであろうから、自分の歌を一首でもいいからいれて欲しい」
と俊成に伝え、自分の歌が百余首収められた巻物を託した。
平忠度はその後、一の谷の合戦の戦いに敗れたが、後に師である藤原俊成がその中の一首であるこの歌を『千載集』に採用したため、この歌が広く知られることになった。
作者は「よみ人しらず」と表示
忠度はその後「勅勘の人」(天皇のお咎めを受けた人にいう言葉)となったので、藤原俊成は作者は「よみ人しらず」の歌として入集させた。
平忠度の他の和歌
行きくれて木の下かげを宿とせば花や今夜(こよひ)の主ならまし
現代語訳と意味:
旅の途を歩いていて、日が暮れてしまったので、木の下に一晩眠ろうとしたら、桜の花が今夜の宿主であろうよ
平忠度について
平忠度 たいらのただのり[1144~1184]
平安末期の武将・歌人。忠盛の子。清盛の弟。薩摩守(さつまのかみ)。
藤原俊成に師事して和歌をよくし、平氏西走の途中、京都に引き返して師に詠草1巻を託した話は有名。一ノ谷の戦いで戦死。
勅撰和歌集に11首入集。
参考:二位尼の辞世の句
以下に、平家の壇ノ浦の合戦における、二位尼の辞世の句を掲載します。
今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは
作者:二位の尼(平清盛の妻・時子)
壇ノ浦の合戦では、安徳天皇を抱いた作者、二位の尼が、戦いの負けを悟り、安徳天皇を抱いて入水した。
その際、幼い安徳天皇に「波の下にも都があるのですよ」と言い聞かせて、入水したとの言い伝えがある。
この歌について詳しくは以下の記事に