誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば 藤原俊成  

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誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば 藤原俊成

2021年11月26日

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誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば

藤原俊成(ふじわらとしなり)の代表作として知られる、有名な短歌の現代語訳、品詞分解と修辞法の解説、鑑賞を記します。

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誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば

読み: たれかまた はなたちばなに おもいいでむ われもむかしの ひととなりなば

作者と出典

藤原俊成(ふじわらのとしなり)

新古今和歌集 巻第三 夏歌 238

現代語訳と意味

私が花橘の香をかいで昔の人を思い出すのと同じように、私が死んだあとに、このように私のことを誰かが思い出すのだろうか。

句切と修辞法

  • 3句切れ
  • 倒置

語句と文法

  • たれか…現代語の「だれ 誰」。「か」は疑問の格助詞 ※係り結び(下に解説)↓
  • 花橘…さつき科の植物のその花
  • 出でむ…「む」未来・推量の助動詞 係り結びの已然形
  • なりなば…「なり」+「な」(完了の助動詞「ぬ」の連用形)+「ば」は仮定の助詞




解説と鑑賞

藤原俊成の代表作といわれる短歌。

花橘の香

和歌において「花橘」または、橘の花は、人を思い出すよすがとして、登場する植物の一つです。

最も有名な歌は、古今和歌集の「さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」が挙げられます。

この歌はその歌を本歌取りとしています。

 

「昔の人」の意味

本歌「さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」の「昔の人」は別れてしまった友人や恋人を思われますが、藤原俊成のこの歌の「昔の人」というのは自分自身です。

自分が亡くなって、過去の人となってしまったら」という仮定の下に詠まれた歌です。

花橘の香りに昔の人を思い出す」というのは、本歌を踏まえたもので、それ以上に、花の香りに人を思い出す」ことが、ほぼ常套化された行為であることから、作者自身もそうしている。

「誰かまた」の「また」に連続性

その行為の連続性を想定させるのが、「また」の副詞の部分、それから、「我も」の「も」の助詞の部分です。

「我も」ということは、他の「昔の人」は既に故人であることが分かります。

作者の心情のポイント

この歌は、本歌と同じ「昔の人」とはいっても、単に生き別れた思い出の人ではなく、故人を懐旧する歌であり、その行為を今度は自分を起点にして述べた歌です。

本歌とは主客を逆にしているのが、ポイントです。

そうすることで、歌全体になつかしさだけではなく、そこはかとない寂しさが漂います。

このような寂しさやわびしさをベースにした歌が、藤原俊成の特徴でもあり、俊成自身が提言した「幽玄」を表す具体例となっていることが分かります。

藤原俊成について

藤原俊成(ふじわらのとしなり)

1114-1204 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。〈しゅんぜい〉とも読む。「千載和歌集」の撰者。歌は勅撰集に四百余首入集。
小倉百人一首 83 「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」の作者。

作歌の理想として〈幽玄〉の美を説いた他、『新古今和歌集』(1205)や中世和歌の表現形成に大きく寄与。
歌風は、不遇感をベースにした濃厚な主情性を本質とする。
藤原定家は子ども、寂連は甥、藤原俊成女は孫だが養子となった。他にも「新古今和歌集」の歌人を育てた。

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