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幽玄の意味を解説 古今集藤原俊成の和歌の美とは?例文あり

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「幽玄」とは、どのような内容を持つ和歌を指すのでしょうか。

藤原俊成の唱えた「幽玄」は、短歌の持つ情緒と調べを含むものです。

藤原俊成が歌合で評をした実際の短歌を例にあげ、俊成自身の言葉や和歌作品から、幽玄の意味を探ったものをまとめてみました。

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「幽玄」藤原俊成の短歌の理念


「幽玄」というのは、美的理念の一つで、元々の意味は、短歌のことではなくて、原義は老荘思想や仏教の教義などの深みを表すことに使われる概念でした。

平安時代の歌人、藤原俊成は、この理念に沿う短歌を優れた作品として評しましたが、俊成の言う和歌の場合の「幽玄」は同じ深みであっても、学問的なことではなく、ある種の情緒を指すものとして使われました。

その「幽玄」とは具体的にはどのようなものだったのでしょうか。

実際に藤原俊成自身が評を下した短歌や言葉、それと俊成自身の作品からも、幽玄の意味を探ってみましょう。

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「幽玄」は余情美のある和歌

俊成がよしとしたものは余情美の感じられる作品です。

余情美というのは、「余韻がある情感」ということ。

すなわち、「対象を広く、深く、遠近を伴って重層的に表す評価」ととらえられています。(『臨終の雪藤原俊成の生涯』東野敏夫著より)

そして、この概念が、平安時代の歌を評価する「歌合」での俊成の一つの基準でありました。

これだけではわかりにくいので、これから説明をしていきます。

 

「幽玄」を表すとされる短歌の例

実際に俊成の「幽玄」を感じた歌には、どのようなものがあったのでしょうか。

上の『臨終の雪藤原俊成の生涯』にあげられているものから、下に抜き書きします。

うちしぐれ ものさびしかる あしのやの こやのねざめに みやここいしも

- 藤原実定作

俊成はこれに

「ものさびしい時、みやここひしもなど云へるさすがにおのれに『幽玄』の世界を現してよろしくこそ侍れ」

として、この歌を「勝」として選んでいます。

都を離れてしまった人が、華やかでにぎやかな地を恋しいとするこの歌の情緒は、寂寥の思いと言えます。

藤原実定のほととぎすの歌

もうひとつ、あげられるのが、百人一首にも採られた有名な歌、

ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただ有明の月ぞ残れる

-後徳大寺左大臣 (藤原実定)

ホトトギスの声の方を眺めても、ホトトギスそのものがいるわけではない。ここに声の余韻のみが残されます。

そこに、聴覚的な声の知覚から、目に見える視覚的な「有明の月」が、余韻を別な形で鮮明に強めることに成功しています。

「マイナスを表す」歌の内容

この歌の内容はホトトギスが鳴いて、そこから何かが発展していったというのではないのです。

そうではなくて、あったはずの声、そこにいたはずのホトトギスが、逆にいなくなったというのが、歌の帰結なのです。

「有明の 月ぞのこれる」というのは、月がホトトギスに変わったというのではない。

絵でいえば、ホトトギスがいなくなったあとの、むしろ背景の情景だけが残っている、そういう内容です。

普通の短歌との違い

短歌というのは、最初の言葉に対して、言葉を足して、ものごとを加えていくというのが、通常です。

575777と進むにしたがって、詠まれるものごとが、プラスされて構築されていくのが常ですが、この歌は、最初にあったホトトギスの声はなくなって、マイナスになっていく、そういう経過を展開する歌です。

この「マイナスを表す短歌」、これも、俊成のいう「幽玄」というものに当てはまるのではないかと思われます。

あるはずのものがなくなるというのは、これも寂しいこと、寂寥の感情につながります。

いずれにしても、俊成のとなえる幽玄は、平安時代の全般的な「幽玄」の定義とは違い、もっと線の細い微妙で繊細な美的境地を意味していると言えましょう。




幽玄は歌の調べを含む概念

また、他に俊成は、「歌の姿」「歌のかたち」として、歌を耳で聞く時の印象についても書いています。

短歌の外形ともいうべきもの、現代の用語なら「調べ」や「音韻」を含むものだと思わますが、それを

ただ読み上げたるにも、打(ママ)ながめたるにも何となく艶にも幽玄にも聞こゆることあるべし

として、さらに

歌は調(しらべ)が第一である。調はすなわち姿なり。声は姿の調子なり

と結論づけています。

詳しく言うと、上の俊成の言葉から言えることは、俊成のいう幽玄というのは、歌の内容だけではなくて、声で読み上げた時に感得できる、歌の聴覚的な効果をも含むものだということです。

短歌の調べとは

短歌をある程度勉強した人ならわかることですが、短歌の場合は内容と音は不可分、つまり分けることができないのです。

言葉の音が、そのまま短歌の美しさとなって、一首の内容と意味を強めるというのが、歌謡でもある短歌の定義なのです。

これは、たとえば、日本のポップスなどの歌を考えてみてもわかることで、いくらすてきなリフレインでも、そこに見合ったメロディーがついていなければ、台無しになってしまいます。

それと同じことで、「幽玄」が歌の意味のみならず、歌の調べにもまたがるものだったとしても不思議ではありません。

逆にそういう点に気が付いた藤原俊成という人は、感性の大変に優れた人であったと思われます。

 

藤原俊成自身の「幽玄」の歌

最後に、藤原俊成自身の「幽玄」の歌を思われる歌を引きます。

またや見む交野のみ野のさくらがり 花の雪ちる春のあけぼの

-藤原俊成

 

歌の意味は「はたして再び見ることができるだろうか。望めないだろう。この交野の禁野で桜狩りをして花が雪のように散る、この春のあけぼのの情景を」

この歌のポイントはどこか、もうおわかりでしょう。

初句「またや見む。はたして再び見ることができるだろうか。おそらく見られまい」ということで、この歌は、その下の雪のごとく散る桜の花の朝の情景を打ち消しています。

つまり、この花の散る情景は、眼前にありながら、未来には「ない」ものとして、上に述べた例のように最初から「マイナス」のものごととして提示されるのです。

これから私が詠むことは「ない」ことだとする、このような現存する者の移ろいと存在の希薄さ、おそらくそのような寂寥も俊成の言う「幽玄」であったろうと思います。

上記の本では、他に西行の

心なき身にもあはれは知られけり しぎ立つ沢の秋の夕暮れ

―西行法師(新古今和歌集)

も幽玄の和歌の例としてあげられています。

どうぞ、歌を声に出して詠みながら、藤原俊成のいう「幽玄の美」を感じとってみてください。







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