むすぶ手のしづくに濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな 紀貫之  

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むすぶ手のしづくに濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな 紀貫之

2021年11月29日

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むすぶ手のしづくに濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな

紀貫之の古今和歌集に収録されている和歌の現代語訳と修辞法、詠まれた季節などの解説、鑑賞を記します。

古今和歌集の選者であり、古今和歌集の序文「仮名序」の作者である紀貫之の和歌を読んでいきましょう。

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むすぶ手のしづくに濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな

読み:むすぶての しづくににごる やまのいの あかでもひとに わかれぬるかな

作者と出典:

紀貫之 古今集404

現代語訳と意味

すくう手から滴り落ちるしずくで水が濁る山の井の水にまんぞくしないように、名残惜しいままに人と別れてしまうことであるよ

語句と文法

滋賀…「志賀」と記載してあるものがある

石井・山の井…石で囲った井。水をせき止めたところ

むすぶ…両手を合わせて、水をくむ形にする

にごる…「濁る」連体形

「あかでも」品詞分解

あかでも…「あく」漢字は「飽く」が基本形の連用形。

「で」は打消しの助動詞。「も」は詠嘆の表現。

「あか」は「仏壇にそなえる水」のことで、掛詞となっている

句切れと修辞法

句切れなし

掛詞「あか」と動詞の「あかでも」

 

解説

紀貫之の古今集の別れの歌、他に『土佐日記』にも収録されている。

詞書に

滋賀の山越にて、石井のもとにて、物言ひける人の別れける折に よめる

とある。

現代語訳にすると

滋賀の山越えの時に、石囲いの井に、言葉を交わした人と別れる時に詠んだ

ということで、水の湧く井戸のようなところで、水を飲んでいる人、おそらく女性と親しくなり、しかし、そのまま別れた時の心情を詠った歌と推測できる。

なお、原文「物言ひける」は「男女が情を通わせる」の意味がある。

澄んだ水でなく、濁った水なので、少ししか飲めないため、満足できない。

そのような心の状態を、人、おそらく女性とのわずかな時間の接触に当てはめて表現する。

掛詞は、「閼伽(あか)」。仏前に備える水は、わずかなので、量的に渇きを満たすほどではない、不満足な状態をこちらも表している。

「幽玄」の代表歌

藤原俊成は、

おほかた歌は必ずもをかしき節を言ひ事の理を言ひ切らむとせざれども、もとより詠歌といひてただ詠みあげたるにもうち詠(なが)めたるのにもなにとなく艶にも幽玄にもきこゆる事あるなるべし。よき歌になりぬればその言葉姿の外に景気の添ひたる様なる事のあるにや。

として、在原業平に「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ちほつはもとの身にして」と並べて、 この歌を、俊成が提唱する和歌の理念「幽玄」の歌に当てはまるとして、歌藍での判詞にあげています。

紀貫之の歌人解説

868年ごろ~945年 早くから漢学や和歌の教養を身につけた。

古今集の撰者で三十六歌仙の一人。

古今和歌集の仮名の序文、仮名序で歌論を残した。「土佐日記」の著者でもある。

紀貫之の他の和歌

霞たちこのめも春の雪ふれば 花なきさとも花ぞちりける

郭公人まつ山になくなれば 我うちつけに恋ひまさりけり

しら露も時雨もいたくもる山は 下葉のこらずいろづきにけり

ちはやぶる神の斎垣にはふ葛も 秋にはあへずうつろひにけり

霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし

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