貧窮問答歌は山上憶良の万葉集の和歌の代表作品の一つです。
山上憶良の貧窮問答歌の長歌と反歌の現代語訳と解説、鑑賞を記します。
貧窮問答歌とは
スポンサーリンク
貧窮問答歌は、作者は山上憶良による万葉集巻5に収録されている和歌の名前です。
字数の決まっていない 長歌という形式の歌と、短歌の形式の「反歌」という二つの歌から成っています。
貧窮問答歌の読み
貧窮問答歌の読み方は、現代語では「ひんきゅうもんどうか」。
万葉集の読み方では「びんぐうもんどうのうた」。
作者名 山上憶良は 「やまのうえのおくら」となります。
時代背景
歌が詠まれたのは、奈良時代初期、731年ごろとされています。
貧窮問答歌をわかりやすく
貧窮問答歌の主題をわかりやすく一言でいうと、農民の生活の苦しさが主題です。
農民の生活の苦しさをつぶさに訴える内容で、どうして自分だけがこんな目に合わなければならないのか、世の中がかくも無常であるという嘆きを表現するものです。
作者山上憶良について
山上憶良自身は朝廷に勤める立場の身分の高い人で、農民ではありません。
したがって、農民の立場に立って詠んだ歌であり、その点もたいへん特異なことであり、この歌の特徴的なところです。
もう少し詳しく言うと、山上憶良は国司という役職の人で、その体験に基づいて農民の生活を見聞きしていました。
庶民の生活の労苦を、貧窮者同士の対話という形にして歌に詠んだのです。
以下に、歌の原文と訳文を詠んでいきましょう。
貧窮問答歌の原文
以下は貧窮問答歌の原文です。
問答歌の構成
さらに、長歌の部分は、二人の貧者の対話という構成をとります。
まるで、舞台に上った二人が台詞を読み上げるかのような、演劇的な印象を与える歌ともいえます。
貧窮問答の歌一首 短歌を併せたり
(問いの部分)
風雑(まじ)へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろいて 咳(しわぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かき撫でて 我を除(お)きて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(かたぎぬ) 有りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 吟(によ)び泣くらむ 此の時は 如何にしつつか 汝(な)が世は渡る
(以下は答えの部分)
天地(あめつち)は 広しといへど 吾が為は 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾が為は 照りや給はむ 人皆か 吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾も作るを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる かかふのみ 肩にうち懸け 伏廬(ふせいお)の 曲廬(まげいお)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂え吟(さまよ)ひ 竃(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣懸(か)きて 飯炊(かし)く 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端きると 云えるが如く 楚(しもと)取る 里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 斯(か)くばかり 術無きものか 世間(よのなか)の道
(以下は反歌 短歌一首)
世間を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る
貧窮問答歌の訳
たいへん長い歌なので、主要な部分を要約して訳します。
貧窮問答歌の訳 問いの部分
雨や風、雪の日は寒くてどうしようもなく、塩をなめて糟酒をすすり、咳鼻水をすすり、麻布の布団と重ね着をしてもそれでも寒い。どうしたらいいのだろうか。
貧窮問答歌の訳 答えの部分
天地は広いというが、私にとっては狭く、太陽や月の恩恵もない。人間として生まれ、人並みに働いているのに、ぼろぼろに垂れ下がる着物を肩にかけて、曲がって傾いてつぶれそうな家の地べたに藁を敷き、父母も妻子も悲しんだりうめいたりしている。かまどに火の気もなく、鍋に蜘蛛の巣が張り食べ物もない。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのか。
貧窮問答歌反歌の訳
そして、まるで二人が声を合わせて歌うかのように、最後に反歌が添えられます。
世の中をつらい恥ずかしいと言ったところで、鳥ではないのだから飛んでいくわけにもいかないのだ
解説
長歌の内容は、農民の生活の苦しさ貧しさが、たいへん詳しく描写されています。
国司として庶民の生活を目の当たりにした山上憶良はその悲惨さを何とか伝えようとしたものでしょう。
万葉集は、季節や恋愛、亡くなった人への思いなどが多く、このような社会状況を詠むという主題は他にはありません。
いわば「社会派」の歌ともいえ、山上憶良が特徴的な歌人であると言われる理由がここにあります。
歌自体は、中国の漢詩などに影響を受けていると言われており、陶淵明や貧家腑、王梵志の貧苦を歌った漢詩がそれに当たるという説があります。
というのも、山上憶良は遣唐使として唐へ渡ったことがあり、一説には渡来人(唐から日本に渡ってきた人たち)ではないかとも考えられています。
同じ時代の大伴旅人なども、漢文の影響を大きく受けた和歌を詠んでおり、いずれにしても漢文の影響が大きいことには違いありません。
しかし、漢籍に着想を得たとしても、貧窮問答歌の内容はあまりにも具体的で真に迫っています。
やはりこの辺りは、憶良が日本で実際の農民の生活を見聞きした体験が多く含まれていると考えられるでしょう。