伊藤左千夫は小説『野菊の墓』の作者ですが、元は「アララギ」の歌人です。
『野菊の墓』の描かれた背景には、伊藤左千夫自身の、恋愛と別離の体験があります。
スポンサーリンク
伊藤左千夫の恋愛の格言
伊藤左千夫のいう恋愛の格言として、ネットで頻繁に引用されているものは
恋の悲しみを知らぬ者に、恋の味は話せない 伊藤左千夫
というものと
恋はとうてい痴なもの。少しささえられると、すぐ死にたき思いになる。少し満足すればすぐすべてを忘れる。思慮ある見識ある人でも、ひとたび恋に陥れば、痴態はまぬがれ得ない。 伊藤 左千夫
であるようです。
「痴」は「おろか」と読み、 「少しささえられると」は、「ささえる=はばまれる」の意味です。
伊藤左千夫という人は、強度の近視で眼鏡を二つ重ねてかけなければものが見えなかった(長塚節)と伝えられているそのためか、誤字がひじょうに多く、語彙もどうも一般的でないものが度々使われることが多いのです。
伊藤左千夫と長塚節の対比 感情と平板
また、「野菊の墓」においても、主要なあらすじはともかく、それ以外の背景に関して、たとえば、花の名前や種類なども、時期や場所などがかなりいい加減でもあったと、長塚節が指摘しています。
「野菊の墓」は、とにかく主人公の悲恋に登場人物がほぼ全員大泣きするという、時には感情的過ぎる場面の羅列が見られます。
一方、長塚節の方は、同じ時期に「土」という小説を書いていますが、主観を排してあまりに精密、また生真面目であり、当時の農村の様子を伝えるものとしてはともかく、面白みがないと批判をされています。
そして、面白いことに、この両者は、「小説家」ではなくて、文筆のメインは、短歌なのです。正確に言うと、伊藤の方は短い歌ではなく、その頃には珍しい長歌も多く残していますが、大変優れた歌人なので、小説の方はけっしてメインではなかったと擁護しておきます。
伊藤左千夫の短歌について詳しくは
伊藤左千夫短歌代表作30首 牛飼の歌 九十九里詠 ほろびの光
正岡子規の直弟子からアララギへ
現代短歌の祖と言われる、正岡子規に会って、2人は同時期に子規の自宅で行われる歌会で研さんを積みます。当時は根岸短歌会と呼ばれるものでした。
そのあとは、「馬酔木」と呼ばれる同人誌を作りましたが、こちらは、根岸短歌会以上に万葉集に倣って古い感じのする歌、擬古的と言われる作品が連ねられています。
子規の逝去後は、伊藤左千夫は「アララギ」を設立。そこに加わったアララギの主要メンバー4名、斎藤茂吉、アララギの編集を後に引き受ける島木赤彦、古泉千樫、中村憲吉と共に、子規の遺した理念を軸に、より近代的な短歌へ生まれ変わり、伊藤左千夫の門弟の土屋文明をも加えて、アララギは同人を増やして急成長を遂げます。
伊藤左千夫と長塚節はアララギの初期メンバーとして欠かせない歌人でありました。
子規との師弟関係、伊藤左千夫が「理想的愛子」と呼んだ、長塚節と子規との師弟関係、それに劣らず、左千夫は子規への尊敬の念は深く、時には滑稽なほど子規を絶対として従ったことが知られています。
恋愛の背景
上記の恋愛の格言については、こちらは、伊藤左千夫の「春の潮」という小説の中の部分です。
連れ合いと別れたもの同士が、思いあっているのだが、女性の父の反対で一緒になれない、その嘆きを書いたものです。
当時、伊藤左千夫には戸村ふじという愛人に当たる女性が居たようで、短歌の中にもそのような煩悶を背景とする作品が多数見られます。
つまり、壮年になっても、他からどう見られるかはともかく、左千夫が身を切られるような恋愛にやつれていたのは違いなく、それが「恋」について、度々考えせしめる要因となったものでしょう。
また、そうなったのには、左千夫が並々ならぬ純なところのある人であったためもあるでしょう。
伊藤左千夫のエピソードで好きなもの
私が伊藤左千夫のエピソードで好きなものは、ジャーナリストで俳人、赤木格堂の伝える伊藤左千夫の言葉の次の箇所です。
自分は財産を作るつもりなら随分な財産家になつて居たかも知れぬがとても今日程の幸福は得られなんだに違ひない。物持が十万や二十万の金をつかつても僕位の歌を作ることは出来ない。自分は明治の歌人伊藤左千夫として後の世に残ることを名誉とする。
赤木は「聞きやうによつては多少己惚のやうにも思はれるが」と書き足しながら、「歌に対する態度が実に真面目で驚く程真面目であつたことである」として、この言を伝えていますが、この左千夫の言を読むと、やはり感に堪えません。
左千夫は茶道具や掛け軸など骨董を好んだ粋なところもあり、自分の作品をもそのように対象化して、歌を詠み得たことをこの上なく満足に思っていた様子が伝わるではありませんか。
同時に伊藤左千夫と長塚節の尊敬すべきところは、2人とも病気で学業を中断せざるを得なかったため、高等教育、いわゆる、子規のように大学に行ったというようなことはありませんでした。
にもかかわらず、子規の元で短歌の研さんを続けたのです。
また、長塚節は、農家であり、伊藤は牛乳搾乳業者として、経営だけでなく自ら牛舎で働くという生活のかたわら、営利に関わらずに後進の育成も行ったということは、やはり、尊いことだと思われます。
いつか、伊藤左千夫の生地の九十九里浜を訪れてみたい。そして、亀井戸の普門院にある左千夫の墓に詣でてみたいと思っています。