「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」石川啄木の歌集「一握の砂」より有名な短歌代表作品の現代語訳と句切れ、表現技法などについて解説します。
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はたらけど/はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る
読み はたらけど はたらけどなお わがくらし らくにならざり じっとてをみる
作者
石川啄木 『一握の砂』
現代語訳と意味:
働いても働いて暮らしが楽になることはない。じっと手を見る
石川啄木の短歌一覧は下の記事に↓
『一握の砂』石川啄木のこれだけは読んでおきたい短歌代表作8首
語の意味と文法解説:
はたらけど…「ど」逆接の既定条件を示す。
「~けれど」「~けれども」「~であっても」などの意
なお…相変わらず。やはり
ざり…否定の助動詞 「~ない」
ぢつと…「じっと」の文語表記、読みは「じっと」
表現技法と句切れ:
4句切れ「わが生活」の後に「は」または「の」主格の格助詞が省略されている
「はたらけど」のリフレインと、そのあと「なお」がつく5+5+2のリズムを味わいたい。
解説と鑑賞
明治43年7月26日の作品。
明治42年6月、家族を東京に呼び寄せることはできたが、生活は相変わらず苦しい。当時の職種は朝日新聞社の校正係であった。
啄木自身、生活の苦しさについて「前年来の疲弊及び不時のことによりて窮乏容易に緩和せざりき」と日記に書いている。
啄木の窮乏の経緯
僧侶であった父が還俗し、盛岡市帷子(かたびら)小路に一家を構え、年来の恋人で会ったた堀合節子と結婚式をあげさせた。
それ以来、妻と両親の生活がすべて、啄木の方にかかってきた。ふるさと渋民村の代用教員になったが、生活が成り立たず、函館、札幌、小樽、釧路と単身住まいを転々とする。友人には、度々借金をしたり、妻子の面倒を見てもらってはしのいだ。
東京で小説家になろうとするが果たせず、朝日新聞に校正係として入社。その頃になって、やっとそこそこの給料をもらう身となったが、それでも生活は苦しい、というのが、この歌の意味になる。
「はたらけど」には、文意の通り長時間の労働をした、というだけでなく、当時の金額で25円というそこそこの給料をもらっても依然として苦しいという、実質に即した意味もあると思われる。
石川啄木と家族
「たわむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩歩まず」という歌が啄木にはあるが、啄木の困窮の原因を作ったひとつは、啄木の家族であったと言えると思う。
父が僧侶としての職を失って、啄木は両親と、妹の面倒も見なければならなかった。啄木の家族こそが、啄木の苦しい生活の第一の要因だった。
それにも関わらず、啄木は自らの才のなさと、不遇や貧しさをうたいこそすれ、家族への恨みつらみを述べた歌は見られない。
職場の人間や、友人すらもこき下ろす歌も見られるのに対し、わざわざ東京に家族を呼び寄せて同居するなど、家族に対してはあまりにも従順ではなかったろうか。
「雨降ればわが家の人誰も誰も沈める顔す雨晴れよかし」と家族を思う歌と、「高きより飛びおりるごとき心持てこの一生を終るすべなきか」と死への傾斜を詠う歌が並置するのを見ると、むしろこの点が疑問に思われる。
啄木が、自己愛的で傲慢なところのある人物であったのは、間違いない。しかし、啄木と家族の関係については、もう少し見直してみたいと思う。
若山牧水の評
初句から4句までこの作者の癖の抽象的に言い下してきて、5句に及んで急に「ぢつと手を見る」とくだけて、病者風に詠んだところに言いがたい重みがあると思う。まったくこの5句には電気のような閃きがある。
一方、啄木の親友であった金田一京助は、この歌を「社会主義思想に入って来ていた」と、当時の思想的な影響も示唆している。
節子の立場から啄木を描いた小説作品。