西行、新古今和歌集と百人一首の西行法師として知られる、有名な歌人です。
西行の吉野の山の桜を歌った歌はよく知られています。この記事では、西行の桜の和歌についてご紹介します。
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西行の桜の短歌
西行とは、鎌倉時代の新古今和歌集の代表的な歌人の一人であり、百人一首では西行法師と呼ばれています。
一方、松尾芭蕉は江戸時代の俳人当時俳諧師と呼ばれましたが、芭蕉は西行に倣って旅をしたと言われます。
もちろん、旅ではなくて、歌そのものが、芭蕉にもその他の歌人や俳人にも大きな影響を残しました。
この記事では、西行の桜の短歌について紹介します。
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西行の桜の代表作
西行の桜を詠んだ代表作和歌といえば、自らの臨終を詠んだ下の歌のがあります。
願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ
読み:ねがわくは はなのしたにて はるしなん そのきさらぎの もちづきのころ
現代語訳と意味
願うなら、桜の咲く春、その木の下に死にたいものだ。如月の満月の頃に
解説
この花というのは桜の花のこと。
西行は僧侶なので、お釈迦様の亡くなった日に死にたいという願いを詠んだものですが、桜の下というのは華やかでもありますね。
この歌の詳しい解説ページは
他の有名な2首
何(なに)となく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山
吉野山梢の花を見し日より心は身にも添わずなりにき
吉野山の「花」は桜のことで、「花」は象徴的には、思いを寄せた「待賢門院」(たいけんもんいん)を指すとも言われています。
確かに「心は身にも添わずなりにき」というのは、花について言うにしては、やや強い表現と思われます。
この場合の、二首目文末、「~き」というのは、過去の回想を表す助動詞です。
あるいは、僧である西行が、花に重ねてその女人に会った時のことを回想しているともみられます。
花を女性に重ねるというのは、和歌の世界では常套的なことですが、優れた歌人は、そうやって花のイメージを膨らませていくとも言えるでしょう。
もろともにわれをも具(ぐ)して散りね花うき世をいとふ心ある身ぞ
意味は、「生をいとう私であるから、桜よ、私も共に散らしてしまっておくれ」
僧であれば、生への執着が薄くても当然のようですが、西行の場合は、それとも少し違うようです。
「花と散りにし」
桜を詠んだ歌の一連には、
尋ぬとも風の伝(つて)にも聞かじかし花と散りにし君が行方を
というものもあり、「花と散りにし」が、思う人に先立たれたということなら、上の歌の「うき世をいとふ」の気持ちもわかるものとも言えます。
西行の桜の青葉の短歌
西行には、散ってしまった後の花を詠むという歌もあって
青葉さへ見れば心のとまるかな散りにし花の名残と思えば
というのも花に心を惹かれる西行自身と、さらに散ってしまった桜に対しての愛惜が表されます。
桜の青葉というのは、とりたてて面白くはないのですが、下句に「散りにし花」とあると、その残像は読む者にも浮かんでくるのです。
生の時間と桜
春ごとの花に心を慰めて六十路(むそじ)あまりの年を経にける
これを読むと、西行は昔の人にしては、長生きだったことがわかります。
哲学者の西田幾多郎には、「赤きもの赤しと云はであげつらひ五十路(いそじ)あまりの年をへにけり」というのがありますが、その下句は西行に倣ったものなのでしょう。
わきて見ん老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき
自分の身も60を過ぎた老木のようなものであるのですが、それだからなお、花の美しさが身に染みる。
「後どれだけ桜の花を見られることだろう」というのは、未来を歌いながら、切々としたものが伝わります。
最後にもう一つ
吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬ方(かた)の花を尋ねん
「こぞ」とは昨年のこと。「去年たどった道ではない、今年は別な方の木を見に行ってみよう」というもの。
去年と今年にまたがる桜に時間を重ねて、「まだ見ぬ方の花」にほのかな希望や憧憬が感じられます。
西行はそうして、出合った女人の姿をも重ねながら、六十路(むそじ)に至るまで年々の桜の花を愛でたのでしょう。
桜と西行の一生の時間が重なります。また、桜に重ねながら、自らの命を惜しむ西行の桜の花は、いずれの作品も心に響くものがあります。
単に、桜を詠んだというだけではなくて、桜を題材に、西行という人のありようが映し出されているから、これらの歌は人々を魅了するのでしょう。
西行の桜の和歌一覧
西行は200首近い桜の和歌を詠んでいると言われ、その全部はご紹介しきれないのですが、下にできるだけ挙げておきます。
よし野山さくらが枝に雪降りて花おそげなる年にもあるかな
吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ
ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ
吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ
なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき
あくがるる心はさてもやま桜ちりなむのちや身にかへるべき
花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける
花に染そむ心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に
仏には桜の花をたてまつれ我がのちの世を人とぶらはば
いかで我この世のほかの思ひいでに風をいとはで花をながめむ
もろともに我をも具して散りね花うき世をいとふ心ある身ぞ
思へただ花のちりなむ木このもとをなにを蔭にて我が身すぐさむ
ながむとて花にもいたくなれぬれば散る別れこそ悲しかりけれ
風さそふ花のゆくへは知らねども惜しむ心は身にとまりけり
葉隠れに散りとどまれる花のみぞしのびし人に逢ふ心ちする
わきて見む老木おいきは花もあはれなり今いくたびか春に逢ふべき
世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ
(-出典は新古今和歌集や山家集、西行歌集他)