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斎藤茂吉の孫と孫を詠んだ短歌

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斎藤茂吉の孫にはどのような方がいるのでしょうか。

斎藤茂吉の孫と、孫を詠んだ短歌についてご紹介します。

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斎藤茂吉の孫

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斎藤茂吉には長男、斎藤茂太、次男北杜夫の他、長女百子、次女昌子がいます。

このうち、孫として著作を通してよく知られているのは、作家の北杜夫さんの長女である、斎藤由香さんと、斎藤茂太さんの長男斎藤茂一氏です。

北杜夫の娘で孫の斎藤由香さん

斎藤由香さんは、斎藤茂吉の孫にあたりますが、生まれたのが1962年で、茂吉の逝去が1953年なので、直接の親交の経験はなかったことになります。

むしろ、斎藤茂吉の妻輝子夫人、由香さんからはおばあちゃんの行動を世に知らしめた、『猛女とよばれた淑女 : 祖母・齋藤輝子の生き方』 が有名です。

一流を好みながら贅沢を嫌い、権威をものともせず、常に前向きマイペース。
関東大震災、病院の全焼、東京大空襲などの災難を、気骨をもって毅然と乗り越え、
89歳で大往生を遂げるまでに海外108ヶ国を踏破。―アマゾンのレビューより

斎藤茂吉と妻輝子については、下の記事に

 

斎藤茂吉の孫との関わり

斎藤茂吉は、長男である斎藤茂太氏とその家族と同居をしており、茂太氏の子どもである、昭和二十一年四月生れの茂一、昭和二十三年二月生れの章二、その後に生れた徹三の3人の孫のうち、上の二人のことに随筆で言及しています。

斎藤茂吉が茂一に初めて会ったのは、疎開先の山形県大石田にいた時です。

その後、帰京して同居の折には、毎日一緒に散歩をするなどして、孫を身近に接しながら暮らしました。

 

斎藤茂吉の孫を詠んだ短歌

斎藤茂吉の孫を詠んだ歌を歌集『白き山』 『つきかげ』よりご紹介します。

この春に生れいでたるわが孫よはしけやしはしけやし未だ見ねども

歌集『白き山』より。

孫にまだ会わない前の歌。

日記には

孫茂一が生まれそれが幸福であった

と、その日の感慨を記しています。

上の歌は、茂一氏が3歳ごろのことで、写真や手紙で様子を知らせてもらっていました。

はしけやし」は「可愛い」とのことで、下句の反復には、孫に会いたい気持ちと期待が伝わってきます。

わが孫の赤羅ひくらむ頬もひてひとり寝る夜のともしびを消す

「赤羅ひくらむ」は、頬の赤みのことで、斎藤茂吉の好みの表現といえます。。

 

ぷらぷらになることありてわが孫の斎藤茂一路上をあるく

歌集『つきかげ』より。

孫の名前を詠み込んだ、斎藤茂吉の有名な孫歌。

子どものたどたどしい歩みを「ぷらぷらになることありて」としているわけですが、独創的でおもしろい表現です。

この歌の詳しい解説は
ぷらぷらになることありてわが孫の斎藤茂一路上をあるく 斎藤茂吉

 

をさな兒と家をいでつつ丘の上に爽(さわ)やぐ春の香をも欲する

茂一との繰り返される散歩は、茂吉の日常に欠かせないものでした。

 

もう一つ

不可思議の面もちをしてわが孫はわが小便するをつくづくと見る

おそらく、散歩のときなどに起こったことを詠んだものと思われます。

斎藤茂吉は小用が近く、「極楽」というバケツを持ち歩いていたことも伝わっています。

この歌については、斎藤茂吉自身が、随筆において解説しています。

この祖父が小用を足して居ると、孫が来てそれをのぞく、世の中の一つの不思議としてのぞいてゐるやうなおもむきである。家族の者は、そんなことをさせないで、りなさいなどと云つたものだが、うつちやつて居るうち、孫はいつのまにか興味が無くなつたと見え、もうのぞかなくなつた。稚童といへども興味などといふものはそんなにつづくものでないものと見える。―https://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/46466_24606.html

 

欠伸(あくび)すれば傍にゐる眞似す欠伸といふは善なりや悪か

あくびはそもそも行儀の悪いものとされていますが、孫が真似した時は、その姿もいかにも可愛らしくうつったのではないでしょうか。

その後には、吃逆を詠んだものも

われの背(せ)にゐるをさな兒が吃逆(しやくり)せり世の賢きもするがごとくに

いかにも、孫が可愛くてならない様子なのですね。

他にも、

現實(げんじつ)は孫うまれ来て乳(ちち)を呑む直接にして最上の春

孫ふたりわれにまつはりうるさけど蜜柑一つづつ吾は與(あた)ふる

斎藤茂吉の孫の歌を詠むと、幸せな晩年の様子がしのばれます。

苦労も多かった歌人の一生ですが、家族に囲まれて平和なこれらの歌に救われる思いがするのです。




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