くれないの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る 正岡子規の代表作ともいわれる有名な短歌の現代語訳、句切れや表現技法、文法の解説と、鑑賞のポイントを記します。
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くれないの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る
読み:くれないの にしゃくのびたる ばらのめの はりやわらかに はるさめのふる
作者:
正岡子規 「竹の里歌」
現代語訳と意味:
紅色の60センチほど伸びた薔薇の枝、そのまだやわらかい棘に春雨がふりかかっている
句切れと表現技法
・句切れなし
語句の解説
・「くれなゐ」の「ゐ」は旧仮名で「い」と同じ 発音も「い」
・針やはらかに…新字は「やわらかに」
・2尺…昔の長さをはかる時の単位 1尺は約30センチほどになる
解説
正岡子規の代表作短歌の一つ。
春の薔薇の花ではなく枝と雨の取り合わせを詠んだ情感にあふれる歌。
写生の技法による歌
正岡子規は「写生」という表現技法を提唱しました。
写生は「見たままを写す」ということで、この歌でもその「写生」が使われています。
「薔薇の芽」とは
薔薇の芽とは、薔薇の枝のことです。
その年に出た枝のことは、「新芽(しんめ)」と呼びます。
薔薇の新芽は葉も枝も赤みがかった色をしています。薔薇の新芽はまっすぐな枝となって急速に伸びていきます。
この時の新芽の枝はそれまである古枝とは違い、古い枝の方はぽきっと音を立てて折ることができますが、新芽は見るからに細くてしなりやすく柔らかいものです。
色も赤緑色で若々しく、柔らかくしなりやすいバラの細い枝は、細い糸のような弱く降る春雨にこそふさわしいものといえます。
「二尺伸びたる」長さより真っすぐな様子
1尺とは30センチ強の長さで、2尺は約60センチだということがわかります。
「くれなゐの」「やはらかに」という形容以上に、薔薇の新しく伸びた枝の長さを「二尺」と記したことがたいへん具体的です。
同時に、枝のまっすぐな形状が容易に目に浮かぶようになっています。
作者は「二尺」ということで新芽の枝の長さよりも、むしろこの薔薇の枝の若々しさと、枝がまっすぐに伸びているということを表したかったのです。
ちなみに薔薇で伸びるのは、この新芽と葉だけです。元々の幹は目に見えるほど伸びるということはありません。
「やはらかに」の表現の効果
ついで歌は、薔薇の枝の芽という細部から、春雨へと視野を広げていきます。
「やはらかに」は「針」、すなわち薔薇のとげを修飾する言葉としておかれていますが、薔薇の枝全体、それに「やはらかに春雨の」と続くことで、細かい雨の柔らかさも同時に示す位置にあります。
斎藤茂吉はこれについて
「『針やはらかに』といって、直ぐに『春雨の降る』と止めたあたりフランス印象派画色彩のおもかげである」
と評しています。
どういうことかというと、このような場合は「やわらかに」は一点だけではなくて、全体的に霧雨のような春雨にぼんやりとけぶったような、雨も含めたその風景全体の雰囲気を作り出す言葉でもあるのです。
たとえば、鉛筆で描いた白黒の絵と、絵の具の水彩画で描いた絵は、同じものを描いていても雰囲気が違い、後者は柔らかいタッチと色を加えることができます。
この「タッチ」を表すような言葉が「針やはらかに春雨の降る」の「やはらかに」であって、その「やはらかにはるさめ」の語順の効果です。
デッサンを好んだ正岡子規
子規は実際デッサンも行ったので、その際の物の見方が歌にも反映していることを思わせます。
短歌の修辞や表現といっても、単なる比喩ではなく、薔薇の枝と針に雨の降る様子を述べただけで、歌全体を一つの詩的表現として提示しています。
「くれなゐの」の効果
ちなみに、「薔薇」はこの歌では咲いているわけではありません。
「くれなゐ」はあくまで、薔薇の芽が「赤い」といっているだけです。
その場合の赤はバラの花のような鮮やかできれいな赤ではなくて、緑に赤が混じったような「赤がかった」色でしかありません。
しかし、「薔薇」といえば、たいていの人は「赤い色」を思い浮かべます。
しかも「くれなゐの二尺伸びたる薔薇」のここまでの間には、やはり「赤いバラ」しか出てこないのです。
その印象は「薔薇の芽」となっても、変わらないでしょう。
このようなことも短歌の効果であり表現であり、そのため作者の工夫するところなのです。