古泉千樫歌集『屋上の土』全作品 妻と原阿佐緒との相聞歌 - 3ページ  

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古泉千樫歌集『屋上の土』全作品 妻と原阿佐緒との相聞歌

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大正二年「深夜」
夏の夜はいたく更けぬれ惨としてものの匂ひの湧きくるかなや
さ夜ふかく匂ひ湧き立つ池の魚の生きのいのちのかなしかりけり
池の魚ひの生きのにほの焔(ほのほ)だちこの夜の空の更けがたきかも
生きむとする匂ひまがなしわが眼には蒼海遠く展(ひら)けがたきかも
まなそこい深夜(しんや)の海の蒼波(あをなみ)の遠ひかりつつ寄せきたる見ゆ
街の夜は更け爛れたりしかすがに庭の青葉の露にしめれる
わが庭の真上(まうへ)わづかに空青み露はおきたり夜(よる)の草木に
深き夜の庭の青葉のひややかさわれと悲しく顔触りにけり

大正二年「蜩」
雨あがりの街の夕日の赤ければかなかなは鳴くわが庭の樹
わが庭にかなかな鳴けり今われはなれなれしく人を思ひ居りにし
相見ねば汝が来し方のかなしきをねたましくさへ思へるものを
一つ来て鳴きし蜩うらがなしいづべに去りし街の夕日に
ほろほろと鳳仙花赤く散りにけりなほおほよそに遠く恋ひ居り

大正二年「あらしの後に」
あらしのあと木の葉の青の揉まれたる匂ひかなしも空は晴れつつ
あらしあめ晴れてすがしきこの朝や青栗の香のあまき匂ひす

大正二年「瘋癩院」
狂女ひとり風呂に入り居り黄色(わうしよく)の浴衣(よくい)まとひて静けきものを
ものぐるひの若きをみなご湯につかり静かに飯(いひ)を強ひられにけり
狂女は湯につかりつつ飯たべてひと口たべて否といひにけり
窓赤く夕日さしたりぬるま湯に狂女ひてりて幾ときならむ
瘋癩院の夕ぐれ早みきちがひらおのおの暗き臥所(ふしど)に入るも
夕あかりうすら匂へる病室にならびねて居る狂人の顔
床の上に三味線ひける狂人(きやうじん)の容顔(ようがん)くらく夕さりにけり
二三女(をんな)きちがひ起きてきてしきりに吾れに話しかくるも

大正二年「灰燼」
急ぎきて人だちしげきわが門(かど)にかがやく目見(まみ)をふと見つるかも
うちかぶさる灰燼のなかにわが家は小さく残りてあかりつきたり
夕闇に焼けのこりたるわが屋根にりうりうと水は流れけらずや
わが門をひと入りくらし今し見し悲しき目見(まみ)の思ほゆらくに
灰燼の暗くなびかふ夕庭にたどきも知らに相見つるかも
はるばると吾れにきたれる悲し子を今ここにしてすべもすべなく
夕くらく灰燼のなか相寄ればくろ髪の香の何ぞかなしき
ひたぶるに家人(かじん)は物をしまひ居りかなしき人は帰りけるかも
放(はふ)り出せし一切(いつさい)のもの又をさめ焼けざりし家に眠るなりけり

湯を出でて夜の廊下のつめたきにふと胸さわぐ君をひとり置きて
夜の海の暗きを見つつ君居たり一人し居りて何をか思ひし
闇の海に赤き火一つおぼつかなひとりし君をおきにけるかも

さ夜ふかみ小床になびく黒髪をわがおよびにし捲きてかなしも
燭の火をきよき指(をよび)におほひつつ人はゑみけりその束の間を
夜は深し燭を続(つ)ぐとて起きし子のほのかに冷えし肌のかなしさ
うつつなく眠(ねむ)るおもわも見むものを相嘆きつつ一夜明けにけり
朝なればさやらさやらに君が帯結ぶひびきのかなしかりけり

大正三年「柩を抱きて」
日のひかり曇りて白し走れどもひた走れどもわが路白し
この街のにぶき光りの動かざれば心は負けてひた走りたり
またたくまかなしきをんな思ひけり心慄(をのの)きてひた走りけり
いちめんに白き光りの喘(あへ)ぎ立ち眼(まなこ)あぐれば倒れんとすも
ひた走り街をかへればわが家は息をひそめて静かなるかも
ふるさとに久(ひさ)にてかへるかなし児の柩いだきて今はも帰る
ぬばたまの夜の海走る船の上に白きひつぎをいだきわが居り
しみじみとはじめて吾子をいだきたり亡きがらを今しみじみ抱(いだ)きたり
わが膝に今はいだけどたまきはる分(わ)けし命はほろびけるかも
うつせみの吾れをかなしみ汝(な)が有るを汝が啼く声を憎みしは誰そ
をんなに吾が逢ひし時かなし子のたらちねの母の乳は涸れにけり
きはまれる生きの力をうつたへていとけなき齗(はじし)噛みにけるかも
たまゆらに眠りに入りし病める児の火照(ほて)る頬にこそ口触りにけり

大正三年「柩を抱きて」(二)
うす黄なる夜船の明(あか)り見居りしか吾れは今考へざるべからず
夜の船に柩いだきてうつらうつら我がせしかもよ赤児啼き啼く
夜の海を船は走れりこのままに亡き吾子いだきて遠く行かむを
光りつつたちまち消えし流れ星あかつきの海いまだ暗しも
ふるさとの小舟に下りつひえびえと朝明(あさあ)けの海の香(か)湧きみなぎれり
風出づとかねて思ほえ暁(あけ)の海をつとうねる波のかなしき光
山の上に朝あけの光ひらめけりよみがへり来る命をおもふ
抱きゆく小さき柩にふるさとの朝日ほのぼのと流らふるなり
車の上に柩をひしと抱きけりわが家の森黒く光り見ゆ
しんかんとまひる明るき古家(ふるいへ)ぬち小さき柩は今おかれたり
ふるさとにわが一族にいま逢へる汝(な)が死顔のいまだうつくしも
常磐木に冬日あたたかに小鳥なくわが故郷(ふるさと)ぞ安く眠らな
山桃の暗緑の木ぬれ流らふる光りかなしき墓に立ちけり
祖先の墓にひとり樒をささげうつ涙ながして我が居たりけり
黄いろなる水仙の花あまた咲きそよりと風は吹きすぎにけり

大正三年「柩を抱きて」(三)
ふるさとの日光(につくわう)のなかひやりひやり水仙の葉を踏みて居りけり
水仙の薫りのなかに眼をあけばめんめんと冬の日のふりそそぐ
たけたかき棕櫚の木かげは水仙の青きが上にうつりてゐたり
紅椿か黒さびたれ手にとれば蕋の根白くかなしきものを
大きなる土手の斜面に日を浴びてひとりつくづくとゐたりけるかも
杉林暗きがなかにひた坐りこらへかねたる涙なるかも
つつましくひとり野を来つ蕗の薹袂に入れて帰るなりけり
ふりそそぐ冬の日光やはらかに小川の水は流るるものを
すかんぽのうす赤き茎のかなしけれ手には摘みつつ我が噛みがてに
すかんぽの茎をしきりに折りゐしが胸さわぎしていそぎ帰れり

大正三年「柩を抱きて」(四)
椿葉のかぐろ厚葉(あつは)の日の光り真赤の花がこぼれんとすも
つつましく寂しきこころ厩(うまや)より牛ひき出でて庭につなげり
牛の子のいまだいとけなき短(みじ)か角(つの)ひそかに撫(な)でて寂しきものを
黄に明るき昼の厩に乾草(ほしくさ)のひほひかなしみ乾草を切る
太陽は凝りかがやきて廻りたり二頭の牛はぢつと動かず
かなし児は祖先の墓のかたはらにかなしかれども眠らせにけり
中空に澄みきはまれる日の赤き我が子を土に葬(はふ)りはてけり
今はもよ小さき柩のなくなりし家ぬちに来てひとりすわれる
つばくらの古巣は白く寂しきを風はほのかに光りてゆけり
椿葉に暁の光りはながれたり吾が去る国はいまだ静けし
傷を負ひて暗深くうめくけだものの心を感じひた土に臥す
この土のくぐもる力わが肉に脈うつかもよ徒(あだ)にせじ汝が死を

大正三年「思い出」
すやすやに眠れるおもをのぞき見つつ乳汁(ちしる)のにほひ悲しかりけり
たらちねの母の乳汁のにほひ染みやうやく堅くふとりけるかも
くりくりと澄める瞳を囲(かく)むもの吾れをしたしく映しけらずや
亡き児あはれいつも素直(すなほ)に寝ざめては眼(まなこ)つぶらにひとり語りし
亡き吾児(あこ)の姉の手をとりたまたまに冬晴の街をわが歩みけり
冬の光りおだやかにして吾児(あこ)が歩む下駄の音軽くこまかにひびく
吾児が踏む下駄の音かるし手を離し先きに立たせて歩ませて見つ

大正三年「桃の花」
桃の花遠くに照る野に一人立ちいまは悲しも安く逢はなくに
桃の花下照る水のさざれ波ややねたましきこころのみだれ
うつとりと桃のくれなゐ水底(みなぞこ)に映りて吾は涙ながせり
との曇る春の曇りに桃のはな遠くれなゐの沈みたる見ゆ
桃の花くれなゐ曇りにほやかに寂しめる子の肌のかなしき
桃の花曇りの底にさにづらひわれのこころのあせりてもとな
桃の花くれなゐ沈むしかすがにをとめのごとき女なりけり

大正三年「折にふれて」
嵐のなかにひとり覚めをり病めるじの入院のことを思ひわが居り
いつせいに心いらちて鳴く蛙われの懶惰(らんだ)の血のなやましさ

大正三年「蜂」
たたなづく稚柔乳(わかやはぢち)のほのぬくみかなしきかもよみごもりぬらし
飛ぶ蜂のつばさきらめく朝の庭たまゆら妻のはればれしけれ

大正三年「海」(一)
とどろ波かがやき寄する渚べに大きなる牛黙して立てり
川口にせまりかがやくあぶら波音をひそむる昼のさびしさ
川中に大き牛立てり外海の油青波かがやき止まず
ま夏日のかがやく青波やしほ波きもむかふ吾が心のいたさ
おぎろなき海の光りにひた向ひいままはだかに吾が立てるなり
たかだかにかがやく青波ここに居るわれの命を乱せあらたに
ふるさとの海に浸れり青海のかがやく海にじつと浸れり
たまきはるいのちうれしくもろ手あげうねり来る波抜きて泳げり
たかだかに寄せくる波を待ちゐつつうねりに乗りてゆくこころかな

大正三年「海」(二)
素肌なるわが広胸(ひろむね)をたか波のうねりに乗せてゆくこころかな
海底に眼をばひらきつ鶸(ひは)いろのうしほの光り吾れをつつめり
海底のうしほに浸る吾がからだ息のかぎりをうごかざるかな
ひたひたに波に唇触(くちふ)り仰むきて遠き雲の根ゆるぐを見るも
海にゐて額(ぬか)に指するやさしさをせちに感ずるうましき疲れを
しみじみとまひるの海にひたりつつ身はやはらかにうち揺られ居り
玉藻なすか寄りかくよりうつとりと肌は揉まれつ青きうしほに
澄みとほる海にひたりて潮ながらとこぶし食(は)めり岩をかきかき

大正三年「まひる」
ごくねつの真昼の街をうな垂れてしかもひもじく帰るなりけり
夏まひるちまたを行くもくろぐろと喘ぐいのちをいたはり行くも
夏の日のま白きまひるちまた行き行き歩みつつ眼をつぶるなる
ひと吹きの風ふきしかばわれ知らにかうべをあげぬ空のまばゆき
をののきて仰ぎこそ見れ街中の真夏真昼の日の光りかも
まかがやく天日(てんび)は凝りてじりじりと肩の首根(くぶね)の焼くるなりけり
風去(い)にてしんと沈める昼の街かたき地上にわがかげ小さし
ほこりまみれし足袋の寂しさ水撒(ま)きて上(うは)ぬかりせる道を踏み行く
しほはゆき汗ながしつつちまた行くこの残虐のこころよし今は
日ざかりをあゆみ帰ればわが門べ道堀りかへし工夫らの居り

大正三年「まひる」(二)
大川
大川に夕(ゆふ)みち潮のかげふかくひかりふくれてうねりやまずも
おのづから熱さに倦(う)める波のうねり明(あか)く小暗く暮れがてにけり
さす潮のかよふはたての水上(みなかみ)に合歓(ねむ)はやさしくにほひてあらむ

大正三年「独り寝」
蝋の火をほのかにともしねもごろにわがひとり寝るこの夜ふけつつ
屋根をすべる露の音こそかすかなれ今宵独り寝のゆかしきものを
街の屋根今しことごと白露にしとどに光夜空したしく
蝋の火の焔(ほのほ)ゆらげば陰のありしみじみとしてひとり寝をする
ほのぼのと若き心の笑(ゑ)まはしく寂しければなほゆかし独り寝
ほの黄なる蝋のあかりはわが若き肉(しゝ)に沁み入りにほふなりけり
こほろぎはいとどあまねく鳴きふけりわがひとり寝の夜半のしたしさ
澄み透る高き夜空に立ち極まり杉の木ぬれはそよげりひとり

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