古泉千樫歌集『屋上の土』全作品 妻と原阿佐緒との相聞歌 - 4ページ  

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古泉千樫歌集『屋上の土』全作品 妻と原阿佐緒との相聞歌

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大正四年「蛙」
喉ふとの汽笛諸方(しよほう)に鳴れりけり懈(たゆ)さこらへて朝の飯はむ
みしみしと吾児(あこ)に蹠(あしうら)を踏ませけり朝起きしなの懈(たゆ)さ堪へなくに
わりびきの朝の電車にのるところしかすがに光る夏帽子かな
わりびきの朝の電車にのるところ飛燕(ひえん)鳴くとも人知るべしや
ひとり来て親しみがたき光なり野つぱらは今真昼なりけり
まひる野の光明道(くわうみやうだう)を過ぎ来つつまことは何も見ざりけるかも
濁り水にものかげうつるなやましさまことなまけぬ心はあせり
光のなか円(まる)く大きなる瓦斯たんくしづもり立てりこの街の上に

大正三年「赤電車」
赤電車ひた走りたりわが前に門(かど)づけふたり黙(もだ)し乗りゐる
赤電車に居眠るをんな三味(さみ)持てりすずしき風の吹きもこそ入れ
赤電車永大ばしを走りけり上げ潮の香のながれくるかも
さ夜ふかみ街のもなかの大き川しんしんとして潮満つらしも
街の川深夜(しんや)の潮の満ちにけり月ひんがしにのぼりたるらし
街の川さ夜潮満つれ橋の上の乞食(こつじき)の子の帰りゆく見ゆ
夏の夜を更けてかへれば裏通り堀の水こぞ満ちあふれたれ
縁日(えんにち)のはてたるあとのしらじらと物の香かなし風肌に吹く

大正四年「百日咳」
手をひける娘のあゆみもどかしく倦みの疲れに吾れ堪へなくに
たまたまにむすめを連れて家いづれ早くも吾れの疲れけるかも
ぬば玉のこの夜も妻を叱りつつ身さへ疲れて更けにけるかも
秋風の肌にともしきこの夜頃つまを離りてなほいく夜寝る
あかつきのかなかなのこゑかなしもよ妻が袂をまかぬこのごろ
むらむらと南瓜はな咲く畑来つつ青きかまきり踏みにじりたり
移り住み夕食(ゆうげ)し居れば隣家(りんか)の子はげしく咳をせきにけるかも

大正四年「百日咳」(二)
隣家の子百日咳の咳すなりすなはち吾等顔見合はせぬ
百日咳はやりけるらしあまつさへ生(あ)れてまもなき吾が子なりけり
おぼつかなあの家この家に百日咳病む子ありとを知りにけるかも
わがやどの欅の木ぬれ夕影にさやぎしづまりひとり悲しも
物思(も)へばあはれなるかもこの夜ごろ地(つち)にあまねきこほろぎのこゑ
けならべて秋づく雨のふるなべに住みふりし家思ほゆるかも
あかときのかなかなのこゑすみとほりひとりさめゐて思ひ堪へなくに

大正四年「鷺」(一)
青空を斜め下りくる白鷺の光かなしもこの森の上に
街かげの水べにこもる青葉森すさまじかも鷺群れ巣くふ
鷺の群かずかぎりなき鷺のむれ騒然(そうぜん)として寂しきものを
雑然(ざつぜん)と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなき姿なりけり
物おぞく鷺は群れ居り細長き木のことごとに鷺の巣の見ゆ
おのがじしあはれなる巣に立つ鷺ら立ち惚(ぼ)くるなり森は明るく
この森に鷺こそ群るれ向う街昼の電燈ひつそりともり
鷺のゐる鷺の巣あまた見えにつつふと酸つぱゆく汗のにほひす
さびしくも群れゐる鷺かしかすがに吾が足黒く埃まみれたり
群れさわぐこの寂しさに堪へかねて空ゆく鷺の専(もは)らかなしも

大正四年「鷺」(二)
森の外(と)のさるすべりの花夕日に照りあやに明るく鷺さわぐなり
飛びゆく鷺帰りくる鷺森の上の空おぼほしく暮れかぬるかも

街かげに群れて巣くへる鷺のこゑおどろに夜(よる)は更けにけるかも
夜もすがらおどろおどろに群れさわぎ眠りなき鳥の寂しくもあるか
闇ぬちに鷺の匂ひのおどろしく隙(すき)ばかりなるわがからだかも
闇ふかく鷺とびわたりたまゆらに影は見えけり星の下びに
かすかなる星の下びをつぎつぎに飛び行く鷺の見えつつもとな
夜目にしるく落ちて来しもの手にとればあな暖かし鷺のこぼれ羽
鷺さわぐ夜の森出でてあわただしあたたかき寝所(ねど)わが思ふなる

大正四年「梟」
兵隊は錬兵終へて帰るなりさ霧黄いろく日は入らんとす
ひとりの兵列をはなれて陸橋の袂の店に煙草を買ふも
兵隊の帰りはてたる代々木原霧ただよひて夕さりにけり
霧こめて夕さりにけり代々木原物の匂ひの肌に沁みくも
夕霧の代々木の原の帰りみち電燈あかき湯に入りにけり
郊外の町の夜霧に湯屋の灯(ひ)の火影(ほかげ)あかるし遠くは照らず
湯に入りて今は帰ればあやしかもほろすけほうほう鳴くこゑきこゆ
郊外の霧深みかも今鳴くはほろすけほうほう梟のこゑ
ここにして梟のこゑ聞きにけりふくろふの声は寂しきものを
霧のなかにふくろふ鳴けりひしひしと吾が来し方の思ひゆるかも
郊外に吾れ移りきて幾日へしこの夕ぐれのふくろふの声
ほろすけほう五こゑ六声郊外の夜霧に鳴きて又鳴かずけり

大正四年「こほろげ」
雨の夜(よる)家を出でつつゆくりなく場末の寄席に這入りけるかも
人すくなく畳あかるし雨の夜の寄席に這入りて坐(すわ)らむとすも
寄席にゐて古き小唄をきける時こほろぎ鳴けり耳の近くに
雨の夜の寄席の畳のあかるきにほそほそと鳴くこほろぎきこゆ

大正四年「風」
風吹きやみかうべあぐれば夜は深し硝子工場の赤々と見ゆ
午近み畳にうつる日のかげの木影さやぎて風いでにけり

大正四年「木材堀」
まつすぐに日は照りけり町並み(まちなみ)に立てかくる材(き)のま白き
日ざかりの街いつぱいに澄みひびく木工場(もくこうぢやう)の鋸の音
午さがり街は静けし犬ひとつただくるくるとまはりやまずも
日はたけなは木材堀の錆び水の動きにごりて潮みちきたる
まひる日に潮は満ち来(く)もおもむろに木材筏堀を入り来も
満ち潮に筏は入り来(く)あたらしき木の香は匂ふ満ち潮の上を
まつさきに入り来し筏は堀まがり椎の木かげにつなぎけるかも
夕日さす木材堀の土手の松青き松かさ眼に光り見ゆ

大正四年「郊外」
秋の稲田はじめて吾が児に見せにつつ吾れの眼(まなこ)に涙たまるも
代々木の草はら中の小さき池水青くして秋ふかみけり
秋晴るるこの原なかの小さき池子らはひそかに来り泳げり
日の色の匂ふ草はら風そよぎ子らは泳ぎをはややめにけり
草籍(し)きてうつつなに吾がありし時娘は咳をせきにけるかも
秋晴れの代々木が原の松かげにひとり息するわれならなくに
木洩れ日の黄ばみ匂へる草むらに小鳥こもりて歩みゐにけり
日の色に面わあぐれば原なかをいま葬列の歩み行く見ゆ

大正四年「波の音」
両国橋を渡りしが停車場の食堂に来て珈琲を飲む
汽車に乗り行かむと思ふ海べのかなしき宿に今宵はいねむ
しかすがに汽車に乗りたれ群肝(むらぎも)の心さやぎて眼をつぶるなり
汽車にのり心しきりにさやげどもやがて寂しくならむとすらむ
腰をおろしてぢつと眼をとぢ息づけばすなはち汽車は動き出でたり
外の面見れば畑原白く月照れり一思ひにてここに来にけり
宵寒き稲毛の駅にひとり下りいまはほとほと寂しきものを
道ながらひそかに思ふ酒のみてひとり眠らむそのかの宿に
この一夜早く明けなと思ひつつさかづきおきていねむとするを
別れはて悲しき人をしのびつつひとりひそかに甘(あま)え嘆くも
ここにきてさ夜の波の音ききとだにつげやるべくは何か嘆かむ

大正四年「茂吉に寄す」
蔵王(ざうわう)の雪かがやけばわが茂吉おのづからなる涙をながす
みちのくの秋ふかき夜を善根(ぜんこん)の祖母(おほば)しづかに目を眠りませり
おのづからこのうつし世の縁(えにし)つきてみ仏の国へまゐられにけり
あかあかとま昼の山の湯に浸りおのれ頭(こうべ)を撫でて悲しも
山上のまひるの光あかあかと十万浄土あかるかりけり
ふるさとのうま寝よくして長き夜のあかつきしづかに目ぜめけらしも

憶左千夫先生
お広間(ひろま)の風吹きとほり中庭の草花あかくゆらぎたり見ゆ
あなまこと吾れらなまけぬ三年へて先生の遺著いまだも出でず
三年へしこのおくつきにともなへばただ悔いなげき女なりけり

大正五年「朝行く道」
ひさびさに一夜の眠り足らひたりつつましくして街にいで行く
朝早み電車のりかふる三宅坂鴨ゐる濠を立ちてこそ見れ
朝早きさくら田の濠靄にほひ鴨うち群れていつぱいにゐる
鴨むれて濠にみちたりつくづくと眼鏡二つかけ立ち見るわれは
朝日てる向ひの土手に鴨むれてつらなり並ぶその枯芝に
水の面に鴨はしづけしただ一羽飛び返りつつ下がりがてなくに
水の上に下りんとしつつ舞ひあがる鴨のみづかきくれなゐに見ゆ
濠のへにたたづむものは吾れ一人朝日あかるく鴨なくきこゆ
わりびきの電車はいまだ通りけり日は濠に照り鴨なくきこゆ
日あかるき濠にむれゐる水鳥のしづかなるこそあはれなりけれ
満員の電車に乗りて濠見ればうつらあかるく鴨はむれゐる

大正五年「夜に入る前に」
さむざむと街は暮れつつ葬具屋のともし火白く明るくなりけり
夕明かりうすらににじみ街の上の靄蒼寒く頽(くつ)れむとすも
たそがるる窪地の街のにごり空波うつなして鴉群れきぬ
幾群の鴉うづまき舞へる下街のともしはにぶくともれり
暮れがてに余光かがやき群鴉くろき翼に映えにけらずや
たそがるる巷に高き古銀杏鴉むらがりとまりたり見ゆ
くろぐろと鴉むらがり飛びかへりこの夕空のなほ暮れきらず
夕鴉群れて飛べども声啼かず街ゆく人は首(かうべ)をあげず
靄ながら街は暮れ入り火事跡の灰の匂ひの暗く沁みくも
街中の枯木にとまる群鴉さながらにして夜に入りにけり
闇深みまつたく夜になりにけり高き窓一つひつそり赤し

大正五年「節一周忌」
さ夜深み酒さめ来つつ頭いたし腐りつきたる蜜柑好み食む
不知火筑紫にいゆき一人死にけりこころ妻持ちて悲しくひとり死にけり
下総の節(たかし)は悲し三十まり七つを生きて妻まかず逝きし
たなつものはたつもののことねもごろに母に言ひやりし遠く病みつつ
長塚の節を久に思はずけり月に光れる白梅の花

大正五年「雨降る」(一)
雪の上に夜の雨ひたにふりそそぎいのち乱るる春きたるらし
雪の上にぬばたまの夜の雨そそぐ代々木が原をもとほる吾れは
調練のあとすさまじき雪の野に雨ふりそそぐ宵ふけにつつ
ぬばたまの夜の雨ふり土の上の雪しみじみと溶けつつあるなり
ぬばたまのよるの雪原青白み雨ふりやまずわれひとり立つ
ひとり立つわが傘にふる雨の音野にみちひびく夜(よる)の雨のおと
しんとして夜の雨野に立ちゐつつ縦横無碍(じゆうわうむげ)の力を感ず
雨そそぐ夜の雪原にくろぐろと松は一本立てりけるかも
宵ふかみ雨うちそそぐ雪の野を提灯ひとつにじみ見え来し

大正五年「雨降る」(二)
雨くらき夜の原なかを人は来たれしはぶきのこゑつづけてきこゆ
この夜みちともし火持ちて来る人はつれはあるらし語るこゑきこゆ
ぬば玉の雨夜の野路の行きあひに傘にひびかふ雨の音はも
移り香の木肌の匂ひしんとして人は行きすぎぬ暗き夜みちを
雨の夜のこの原なかに行きあひし人のあしおとききて居にけり
ぬば玉の夜の原なかにひとり立ちみだり高ぶる吾れならなくに
早春(そうしゆん)の雨の夜ふけて橋わたり水のながるる音ききにけり
帰りきて雨夜の部屋に沈丁花匂へば悲しほてる身体(からだ)に
雨滴(あましだり)しみみにぎはしはしけやし寝(い)ぬるを惜しみさ夜ふけにけり

辻待車夫ひとりごちつつ蹴込(けこみ)より炭とりいでて火をおこしをり

大正五年「淡雪」
淡雪のわかやぎ匂ふてのひらを吾が頬(ほ)にあててかなしみにけり
身にちかく君の居るかにおもひけりまがなしき血の体(たい)を走るも

大正五年「山びこ」
終電車いま過ぎけらしおのづから街の灯ひそみ土しらけ見ゆ
さ夜ふかみこの街かげの坂みちをひとり下り行く吾れの足音
坂なかば歩み止むれば夜ふかみ凍(こほ)れる大気ひたに静けし
街かげの夜の坂路に立ちゐつつおのづからなる寂しみ湧くも
犬啼きて山びこどよむさ夜ふかみこの街かげに山びこどよむ
山びこは遠く消えけり山びこのこのこゑきかでいく年は経し
もろ啼きに犬啼きたてて騒ぐなべこだま乱れぬ寂しきものを
なき立つる犬のもろ声いつせいに夜空にひびく更けし夜空に

大正五年「島の桃」
春の雨ふりてゐるらしゆふべはもよく眠りたりこの船の上に
春の海路のどけし船ながらつめたき水に顔あらふかも
この船の若き事務長と朝の卓(たく)ともに囲みて珈琲(コーヒー)を飲む
春の雨ふりてしづけし瀬戸の海の水おぼろかにささ濁り見ゆ
ゆく船のめてに生(あ)れたる島一つくれなゐにじみ桃咲けり見ゆ
島山の桃のくれなゐ近く見えわが船すすむ春雨のなか
見るかぎり波さへたたず桃の花匂ふ小島もいまは遠しも
春の雨いま晴れむとすぬれわたる甲板(かんぱん)の上にあたたかに見ゆ
船室に入りてはがきを書かむとすただにのどめる海の寂しさ
旅ゆくと桃の花咲く島山をともしみすれど告ぐべくもあらず

大正五年「五月の朝」
しつとりと五月朝風街を吹き乳(ちち)の匂ひの甘き花あはれ
くちびるにほそほそ吸ひしすひかづら吾が忘れめやそのすひかづら
五月空光こぼるる街の上(へ)にくちびるふるふ過ぎし日おもへば
せいせいと青草のびし濠の土手に朝日かがやく長き斜面に
日かがやく土手の斜面に松の影さやかに映れり青草の上に
さ緑に匂へる濠にこのあした小舟三つ見ゆ藻を採る小舟
舟に採る五月の濠の藻の匂ひさやに匂へり朝日照りつつ
みどり匂ふ藻を採りしかば濠の水濁りどよみて日に倦めり見ゆ

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