古泉千樫歌集『屋上の土』全作品 妻と原阿佐緒との相聞歌 - 6ページ  

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古泉千樫歌集『屋上の土』全作品 妻と原阿佐緒との相聞歌

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大正六年「筑波山」
(宗道より五里の夜道なり)
町はづれ暮れて灯さぬ小家にし夕餐たうべつ夜道行かむに
野は暮れて道しろじろし草鞋(わらんじ)にかへし足もと踏みて見にけり
もの問へどことばすくなき村の娘(こ)と夕の長橋わたりけるかも
暮れはてて灯影ともしき宿(しゆく)のなか寂しけれどものどに歩むも
このさきに家あらぬらし宿(しゆく)はづれたばこを買ひて道よくきくも
ゆくみちのくぬぎの林松林おぼろおぼろに月ののぼる見ゆ
林間(りんかん)に沼あかりしてころろころろ蛙かつ啼く一人い行くに
目をかれぬ筑波繁山ほの白く霞たなびき春の月てれり

大正六年「筑波山」(二)
小筑波の町の灯明りたかだかと見えつつもとな森はつきぬに
あかるきは娼家の明り筑波ねの夜ふけの町にわれつきにけり
筑波山さ夜はふけつつ磴道(いしみち)に娼家のあかり照りて寂しも
つれ立てる筑波少女ら吾(あ)に別れ山にし入ればすぐに木をこる
いただきは近しと思ひをとめらが木をこる姿しまし立ち見つ
霜どけし尾の上の土を踏みゆけばぶなの木にゐて鶯なくも
わが妻の生(あ)れし国原いく筋の水ひかりつつ静こころなけれ
わが妻がをとめとなりしそのかみをしぬび寂しも吾れは知らぬに
巌角につみてかなしもひと茎にひとつ花咲くかたくりの花

大正六年「一日」
ほとほとにこころさびしみ勤(つと)めを半日(はんにち)にしてかえりけるかも
ひとりして歩き帰らな寂しみと人を訪はむはすべなきものを
さびしく歩きて居れば街の上を春の埃(ほこり)の捲き立ち行くも
風に向ひひた馳せ過ぐる自動車のあとの埃(ほこり)のきらめき立つも
篠懸木(すずかけ)の新芽日に照るこの道を歩き行きなむおもてをあげて
木々の芽は天に諸向きかがやけりこの安らかにするどき光り
街ゆけば芽立(めだち)の光りうらがなし人のたよりのつひに来たらず
別れては遥けきものか新芽立つちまたを一人今日も歩める

大正六年「朴の花」
ゆく水のすべて過ぎぬと思ひつつあはれふたたび相みつるかも
相見つる悲しき思ひ堪へがてに朝戸は出でつ妻は知らぬを
のぼりゆく坂をおほひてま弓なす瑞青空のこころよきかな
朴の木のわか葉がうれに大き花白くかがやき夏さりにけり
空しぬぐわか葉がうれに白黄(びやくわう)の匂ひかなしき朴の木の花
こころぐきけさの歩みか朴の木の花さく蔭にひとり立ちつつ
汝(な)を思ふこころ悲しく甘(うま)しきに白くかがやく朴の木の花
この嘆きとはに堪へつつ秘(ひそ)かなる乏(とも)しき思ひ乱さずあらむ
白黄(びやくわう)の朴の木の花いちじろくいまはなげかじ寂しかりとも
うち嘆くなげきも甘(うま)しあひぬれば過ぎにしことは忘れけらしも
はるかなる逢ひなりながらほのぼのとなごりこひしき朴の木の花
夜(よる)深み若葉の匂ひしめやかにたもとほりつつわかれかねしか
かき終へしながきてがみをふところにひそかにいれて外(と)にいでにけり
まがなしむもののあまたにわかれけりひとりゆかむにわれは堪へぬに

大正六年「微恙の後」
曇り日の若葉やすらかに明るかり墓地(ぼち)を通りて湯に行く吾れは
ひそかごと持つとはいはじ曇り日の若葉明るく親しきものを

大正六年「夕墓原」
あとを追ひ騒ぐ子おきて夕ぐれのこの墓原にひとり来にけり
さみだれは一日(いちにち)はれて墓地なかの大路は白く夕さりにけり
青葉かげかさなり暗き墓はらを夕かたまけてひとり廻(もとほ)る
墓原の扇骨木(かなめ)若葉のくれなゐの匂ひはうせて時たちにけり
いちじろく墓原の土に散りしきしいちしの花もすぎて久しも
兵営のらっぱまぢかくなりわたり夕墓はらにこころ落ちゐず
兵営の夕べのらっぱ街の上をこだまさびしくうつりゆくかも
そぞろ来て獨歩が墓に出でにけり煙草吸はむと袂をさぐる
木(こ)の下(もと)によその子どもとわが子ども青梅食(は)むをけふ見たりけり
夕暗の墓地の小みちにうづくまり物は思へどまとまりもなく
たたずみてあたりを見れば白き墓立ちつづくなり夕の墓原
宵暗き墓はら来つつたまたまに香(かう)のにほひのうつしかりけり
墓地下の街の小家のひとならび障子あかるく灯ともせり見ゆ
墓地下の街の小家の灯の明り子ども声だかに本よむきこゆ

大正六年「左千夫忌」
茅場のや水づく庵をおとなへば昼寝しありけり仮床の上に

大正六年「百日紅」
家いづればすなはち見ゆる墓原にたかだかと咲く百日紅の花
百日紅に日ははや照れり朝戸出て汗ばむ顔を拭きつつゆくも
いそぎつつ朝は出でゆく街角(まちかど)に咲きて久しき百日紅の花
日ざかりの墓地(ほち)を通れり朴の木の葉ごもり枝に鴉ゐる見ゆ
さるすべり花咲くかげに男ゐてちひさき墓を堀りにけるかも
墓地かげの木の下闇(したやみ)にうち集(つど)ひをとこをみなら昼餉して居り
半どんの今日いちはやく吾れ帰り汗じむ服をぬがんとするも
夏休み貰ふ日近ししかれども旅にも吾れは行きがたからむ

大正六年「梟」
飽くばかりうち息はむと吾が待ちし夏の休みは来れるものを
夏休みすでにいく日いたづらに心さわがしく過ぎにけるかも
あれこれとすべき為事にいらつつつ身ぬちの力萎(な)へ果てけらし
外を見ればいたき光のみなぎれりむなさわぎつつ汗湧く吾れを
ま夏日の動物園にきたりけり鳥けだものも寂しく立ちゐる
白日(はくじつ)の光りまがなし梟(ふくろふ)はまなこみひらき土に立ちゐる
梟はまろき眼をひらき居りをかしきものは吾にあらぬに
ま昼まの路上に吾れの影くろしひとりまぶしく歩みつるかも

大正六年「朝」
枝重く土にむかひてなり垂るる赤き木の実を手になでにけり
朝歩み遠く来にけりたなそこに赤き木の実を一つ持ちゐる
朝はやく野にし出でゆく母うへを今さらにしも吾が見つるかも
うつそみに堪へていそしむたらちねの母の命は長くしまさむ
うやうやしつねやはらかきたらちねの母の言葉を妻に告げやらむ
つつましく吾が世生きなむ妻子らをひもじからせじ吾が妻子らを
充ちみてるけさの心かいまよりはかならず妻を叱らずあらむ

大正六年「蟹」
谷川のすくなき水を踏みのぼり石おこしつつ蟹をとらふる
女たち豆の葉とりてゐるならしをりをり笑ふ声のきこゆる
崖の上の芒に這へる葛の葉の蔓をたぐれば花こごり咲けり
鋏ふとき雄蟹を二つ捕らへたり青きすすきにしばりて帰る
岩かげの水のよどみに大きなる蟹のぬけがら白く見えつつ
谷川の水踏みゆくと藁草履ながくのびにし幼な日思ほゆ
蟹二つすすきにしばり持ち来れば匂ひまがなし泡をふきつつ
沢蟹のかたき甲らを今しいま手にはがすだになつかしきかも

大正六年「暴風雨の跡」
(安房布良に赴きて)
ゆく道に倒れ木いよよ多くして外海(ぐわいかい)白く見えにけるかも
大木(たいぼく)の根こぎたふれし道のべにすがれて赤き曼珠沙華の花
うち倒れし家並(いへなみ)見つつ吾が来れば海女(あま)らはだかに焚火して居り
潜(かづ)きして今し出で来し蜑をとめ顔をふきつつ焚火にあたる
かくのごと荒れたる海にまた直(たヾ)に命(いのち)したしみいさりするかも
すぐれたる身ぬちの飢ゑを感じつつあらしのあとの海辺を歩く
夕日さす波うちぎはに童子(どうじ)ひとり大き口あき柿たうべ居り
うち荒れし突堤のうち夕日てりさざ波あかしそのさざ波を
夕凪ぎて大島近し病ひ養ふ土田耕平につつがあらすな
あらし暴(あ)れし海べの村を視に来り日はくれぐれと暮れゆきにけり
宵ながら海くろぐろと村人のねむり深からし暴風雨(ぼうふうう)のあと
ぬばたまの闇の汀(なぎさ)をひとりゆきうちよる波に素足(すあし)をぬらす
闇の夜の海ふかぶかし沖べには赤き火ひとつ見えにけるかも
暁(あけ)ふかく潮さしくれば打ち出でて網よするらしあまのよび声
あらしのあと夜ふかき海に働くか力みちたる人間のこゑ
しらしらと海明け来り網寄する小舟ひとつら見えにけるかも
暁(あけ)はやく海にはたらき帰りきて白き飯食む顔のたふとさ

大正六年 牛
「冬晴」
老いませる父に寄りそひあかねさす昼の厩に牛を見て居り
父の面わゆたかに足らへり冬ながら二頭の牛の毛並み
日おもてに牛ひきいでてつなぎたりこの鼻縄(はななわ)の硬き手ざはり
乳牛(ちちうし)の体(たい)のとがりのおのづからいつくしくしてあはれなりけり
さらさらとかな櫛もちて掻きやれば牛の冬毛匂ひかなしも
おとなしき牛の額(ひたひ)をねもごろにわがおよびもて掻きにけるかも
けだものの大きせなかにひつたりと両(もろ)のてのひらあてて寂しも
さ庭べにつなげる牛の寝たる音おほどかにひびき昼ふけにけり
ひとりゐて飼葉(かひば)の藁をきりにけり冬の真昼の厩は明るく
冬日さす大き厩に干草のさ青の匂ひなつかしきかな
牛久しく寝てゐたるあとの庭土の匂ひかなしも夕日照りつつ
夕寒み竈(かまど)にひとり火を焚きて牛の湯を沸かすその牛の湯を
夕寒み牛に飲ませる桶の湯に味噌をまぜつつ手にかきまはす
音(おと)たてて桶の湯をのむ牛をまもり宵闇さむき厩にゐるも

「二、夕渚」
茱萸(ぐみ)の葉の白くひかれる渚(なぎさ)みち牛ひとつゐて海に向き立つ
ふるさとの春の夕べのなぎさみち牛ゐて牛の匂ひかなしも
夕日てる笹生(ささふ)がなかゆ子牛(こうし)いで乳(ちち)のまむとす親牛(おや)はうごかず
夕なぎさ子牛(こうし)に乳をのませ居る牛に額(ひたひ)のかがやけるかも
入りつ日の名残さびしく海に照りこの牛ひきに人いまだ来(こ)ず

「三、草原」
草原につなげる牛を牽(ひ)きに行く日のくれ方のひとり寂しき
しらじらと茅花(つばな)ほけ立つ草野原夕日あかるく風わたるなり
ゆふ日照る青草原にじつとして牛は立ち居り鼻綱(はなづな)をながく
日もすがら牛を繋(つな)げるあとどころすさまじくして野は暮れむとす
繋(つな)がれし綱いつぱいに廻(まは)りつつ牛は食(は)みたりこの草原を
繋(つな)ぎたる端綱解(はづなと)かまくわが寄れば牛は大きく首向けにけり
鼻綱(はなづな)を吾がひくなべにもそろもそろ牛歩き出づ夕日草原
夕ぐれの浅川わたる牛の足音(あおと)さびしみにつつ鼻綱をひく
草原ゆひとり牛ひきかへりたりうまやの前のこの夕明り
厩内(まやぬち)に入るるただちに大き牛ふりかへりきて首のばしたり
牛入れて夕のうまやに吾があれば牛の水持ち父の来ませる
青草のまぐさに交ずる切藁(きりわら)の白くともしく夏ちかづけり

「四、朝涼」
朝庭の梨の木かげに牛つなぎ父は立たせり牛をながめて
朝草(あさぐさ)に足らひたるらしおほきなる項(うなじ)をあげて牛の立ちゐる
朝庭ににれがみ立てる乳牛(ちちうし)の白き胸前(むなさき)透(す)き照れり見ゆ
朝日のなか牛ひとつ立てり黒白の斑(ぶち)あざやかにいつくしきかも
いつくしく正面(まとも)に立てる牛の瞳(め)のか黒に澄めり深くうるみて
牛のうなじ手に撫でぬれば角(つぬ)の根(ね)の暖かしもよ堅(かた)き角(つぬ)の根(ね)
まつすぐに向うむき立つ牛のせなかゆたにいつくしその方尻(ほうじり)も

「五、白日」
ふるさとのまひるの道を一人行き埃(ほこり)まみれしわが足寂し
ふるさとの海には来つれ一めんに真昼の光り白く悲しも
ま夏日の潮入川の橋のかげ大き牛立てり水につかりて
橋のかげすずしく映る水中(すいちゅう)に白牛ひとつ立ちてうごかず
日に熱き欄干(てすり)に寄れり橋したの大き白牛わがのぞきつつ
橋下にわがおり行けば砂しめり赤き小蟹のいくつもゐるも
河中に立ちてひさしきことひ牛水にぬれたる尻尾ふりつつ

「六、露降る」
朝なさなおく露寒み秋の野の草の葉硬(かた)く肥えにけるかも
草刈りにあさあさ通(かよ)ふ山坂の秋はぎの花咲きにけるかも
秋ふかみ刈る朝草(あさぐさ)は短(みじ)かけれど硬く肥えつつ手にここりよし
秋づきてかたき草の葉ねもごろに牛に切りやるその朝草(あさぐさ)を
秋の野に朝草刈り来(き)ひもじさのこころよくして笑(ゑ)まはしきかも
朝はやく秣(まぐさ)刈りきて一ぱいのつめたき水を被(かぶ)りけるかも
この朝の秋のさやけさいちじろく牛の乳(ちち)の出(で)よろしかりけり

「七、時雨」
久方のしぐれの雨に沾(ぬ)れそぼち刈田かへすと牛の鼻とる
小田すくと牛の鼻とる鼻竿のしづくさびしく時雨ふるかも
山かげのだんだん小田をつぎつぎに牛ひき移りすきかへしつつ
時雨の雨さむざむふれば鞍下(くらした)に片手さし入れ牛の鼻とる
時雨晴れ日のさしくれば鼻竿(はなざお)の白くかわきてゆくがうれしも
時雨はれ日のてるなべに父も吾も笠をしとりて畔(あぜ)におくかも
笠ぬぎて心あたらし鼻どるや牛はますぐによく歩みつつ
刈小田に鼻どりしつつ山添ひの柿の実あかく眼(め)につくものを
苅田すく昼の休みに木にのぼり赤熟柿をさがしつつ食(は)む
昼休みやすみてあれば田の土手に牛は角する土くづしつつ
刈田すく鼻どりしつつ稲茎(いなぐき)にあしうら触(ふ)りてこそばゆきかな
久方の時雨の雨はふれれども夕早くして為事(しごと)は終(を)へむ
さむざむと夕の谷田(やつだ)を時雨(しぐれ)ふり牛のあゆみのにぶくなりにけり
かへりきて夕の厩に鞍とれば見のかるがるし牛の姿の

「八、坂の上」
牛ひきて下(くだ)らむとする坂の上ゆふ日に照らふ黒牛のすがた
かぎろひの夕日背にしてあゆみくる牛の眼(まなこ)の暗く寂しも




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