古泉千樫歌集『屋上の土』全作品 妻と原阿佐緒との相聞歌 - 5ページ  

広告 アララギ

古泉千樫歌集『屋上の土』全作品 妻と原阿佐緒との相聞歌

※当サイトは広告を含む場合があります

大正五年「紫陽花」
体中(たいぢゅう)にしとど汗ばみこころよく空気のかわく街をわが行く
白き蝶まなこに光りひとつ飛べり七月まひる街は静けく
しんとして夏の日てれる街なかに三味の音ひびく屋根の奥がゆ
日のさかり白みわたれる街なかに二挺の三味線おとをひびかす
まひる日にさいなまれつつ匂ひけりやや赤ばめる紫陽花のはな
炎天のひかり明るき街路樹を馬かじりをり人はあらなく
日盛りの街樹のかはをかじり居(を)る馬の歯しろくあらはに光る
街頭に馬がかじれるすずかけの木肌か青く昼のさぶしさ

大正五年「死に行く魚」
真なつ日のひでりの空の蒸し曇(ぐも)り養魚池(やうぎよち)の波ひかり寂しも
汐にがく沸き立つ池の魚のむれ堪へがてぬかも浮びいでつつ
養魚池のひでりの水のにごり波むれ浮ぶ魚のうろこの光
養魚池のひでりさざ波魚死にておびただしくも浮びたるかな
無花果の青き葉かげのさざ波に動くとも見ゆれ死にたる魚を
ひろびろと夕さざ波の立つなべに死魚(しぎよ)かたよりて白く光れり
養魚池の夕日さざ波てり光り子らは掬ふも死にたる魚を
さびしくも夕照る池の水かげに生きゐる魚のむれ喘(あへ)ぐ見ゆ

大正五年「鼠」
川口の午後の汽笛のあはれなり事務室にゐて汗ふくわれは
大川尻潮涸(そこり)の泥のくろぐろと熱(ほめ)きにほひて昼たけにけり
かうべあげ汗ふき居れば真赤なる鉄管つみて行く船のあり
女一人沙蚕(えむし)堀りゐる真夏日の膿(うな)沸く泥を堀りかへしゐる
日の光あざれて匂ふ泥の上をこは幾匹の鼠なるらむ
真夏日のひき潮どきの泥の上にあなけうとくも群れゐる鼠
泥の上を鼠ちろちろあさり居り女は切(せち)に沙蚕(えむし)堀りをり
かつとして午後の日照れり橋の上を電車ゆく音人あゆむ音
穢(けが)れ水やや揺れそめぬものうくも潮は陸(くが)によせつつあるらし
ややややに夕潮よせく泥の上の鼠けうとくなほあさりつつ
光どよむ真夏夕波かきみだしもうたぼうとの行くが悲しさ

大正五年「あらしの朝」
あかときの暴風雨(あらし)のなかに目をさめて吾が児の寝顔見守りけるかも
この朝のあらしのなかの錬兵の銃の音こそきこえくるなれ
あさあけの街の坂道たぎち落つる雨水踏みて行くがともしさ
朝早み錬兵終へて雨のなか濡れかへりくる兵隊の顔
いちめんの錬兵場の濁り水雨やや小降り朝空あかし
雨くらき野の洞穴の青草に雀寄りつつしき鳴く一羽
朝あけの豪雨の原にひとり立ち吾が素足こそ濡れ光りけれ
あらしのなか野道に立てる吾が足の青白くしてうとましきかも

大正五年「曼球沙華」
雨はれの朝の光のひえびえと肌によろしく秋ふかみけり
朝寒の日かげは深く畳にさし朝食(あさげ)ののちの心すがしも
このあした電車にのらず徒歩ゆけばさやかに吹ける秋の風かも
おのづから頭(かうべ)をあげて歩みくればみ濠の土手に曼球沙華赤し
み濠の土手のひとすみあかあかと咲きつづきたる曼球沙華の花
きんいろの日光すみて濠向う静けき土手の曼球沙華の花
秋の風土手をわたればあかあかとひそかに揺るる曼球沙華の花
天高く秋の風ふき濠の土手吾れ離れてまんじゆしやげ赤し

大正五年「深夜の川口」
夜ふかみ宿直(とのゐ)の室の窓かけの白きひかりに蠅ひとつ飛ぶ
宿直(とのゐ)して夜はふけにけり橋をゆく電車の音今はきこえず
ひつそりと窓をあくれば大河の夜の潮今しそこりてあるらし
この深夜湖涸(そこり)の上にあかあかとかんてらともり人のゐる見ゆ
ひそほそと湖涸(そこり)の上に二人く沙蚕(ごかい)を掘れりこのま夜なかに
かんてらの炎はなびく沙蚕掘る人の泥手の動きやまなく
夜の湖涸(そこり)に沙蚕ほりつつひつそりと唄をうたへりかなしきものを
潮干ればかなしきものかぬばたまのこのま夜中に沙蚕ほりつつ
河尻の橋脚の灯のひつそりと水にあかるく夜は更けにけり
寝ぬべくは心はさびし窓出でて岸の小舟に下り立ちにけり
大河の引潮どきの夜の風吹くとしもなく面(おも)にさびしも
ひそひそと沙蚕を掘れりさ夜ふけの潮涸の匂ひ暗くさびしき
さ夜ふかみ潮涸の上の泡の音ふつふつとしてひとりしさびし
夜の河尻暗く立ちたる庫(くら)かげにほろほろに鳴くこほろぎのこゑ
今し今ごかいを掘れりぬばたまの夜の湖涸(そこり)の久しからめや
たまたまに永代橋を赤き灯の一つ走れりさ夜ふかみかも

大正五年「霜凪」
朝さむみ路まがりゆく崖のかげ銀杏の落葉横におびただし
霜晴の日の照る坂に吾が立てば鴉樹に下り歩みけるかも
わがむすめほうほうと云ひて鴉追へど鴉は飛ばずあゆみゆきつつ
霜晴の野をまがなしみ歩きつつ銀杏黄落(いちやうくわうらく)す寺にきたれり
大寺の屋根の斜面のともしもよ霜の雫の日の光りつつ
児をつれて初冬(しよとう)の寺にまゐりたり旅を恋ひつつこころ寂しも
わがむすめ銀杏落葉を拾ひつつよろこびてをり吾れもひろはむ
吾れと吾が児と野なかの寺に銀杏の葉ふみつつひろふその銀杏の葉

大正六年「児を伴ひて郷に帰る」
(一)夕かげ
ここにして俥(くるま)あらねば夜道(よみち)かけわれと吾が児と徒歩行かむとす
俥あんくて町のはづれになりにけりかの山かげにこの道入るか
この国の冬日あたたかし然れどもかの山かげはすでにかげれり
山峡(やまかひ)に道入らむとすかへり見れば海きららかに午後の日照れり
冬の日の海かがやけりひと掬ひきよきま水を喉にほりすも
わが児よ父がうまれしこの国の海のひかりをしまし立ち見よ
ゆく道は夕づきにけり日のてれる山のいただき見つつ悲しも
五百重山夕かげりきて道さむししくしくと子は泣きいでにけり
さらさらと水の音(おと)する山あひに道は入りつつ夕寒きかも
山あひにてれる日かげのほろほろに肌(はだへ)つめたく夕づきにけり
をさなごの手をとり歩む道のへにみそさざい飛び日は暮れむとす
夕寒き山がひの道行き行くと車のおとのあとよ聞こゆる
歳の暮の醤油もとめて帰りゆく車をたのみわが児は乗せし
この道に連(つれ)になりたる山人が手にさげてゐる雉子の尾ながし
荷車に吾児(あこ)のせくれし山人もここの小みちに別れむとすも
山の上に月はいでたりわが児よ父と手をとりまた徒歩(かち)ゆかむ
山の上に月は出でたり汝が知れるかのよき歌をうたひつつ行かむ

「ニ、鵯の声」
ちちははと朝食(あさげ)し居ればわが耳に透りてひびくひよどりの声
わが丘のせんだんの木に群れきつつ鳴きのさやけき鵯(ひよどり)の声
わが門の木の実ついばむ鵯(ひよどり)のすばやきうごき見れどもあかず
群れゐつつ鵯(ひよどり)なけりほろほろとせんだんの実のこぼれけるかも
あたたかく朝日ながらふ枯草の丘びのみちをわがあゆみ居り
この丘の緩(ゆる)くのびたる裾のべを父とわが児とあゆみくる見ゆ
祖父(おほちち)にはじめて逢っひて甘(あま)えゐるわが児の声のここにきこゆる
あからひく朝霜とけてわが丘の樹々にかがやく日の光かも

「三、明るき空」
おのづから眠り足らひしわが目見(まみ)に村は明るく匿(かく)すところなし
冬の日のま昼あかるき古家(ふるいへ)ぬちおそろしきかもこの安けさを
麦畑をきつつともしもわが家の白き障子に日の照る見れば
蜜柑山にわが児ともなひ木の杪(うれ)に残る蜜柑をもぎてやるかも
古里のここに眠れる吾子(あこ)が墓をその子の姉といままうでたり
子をつれて小川のふちを歩みつつ竹村に入りぬ明るき竹村
水涸れし小川がなかにおり立てば竹の根あまた岸にさがり見ゆ
日のぬくき小川のふちの草の上にわが児と二人蜜柑たべ居り

「四、午鐘(ひるがね)」
ふる里の真昼の光しづかなりをんなこどもの声きこえつつ
日の光あまねく満てり山の上に細く立ちたる煙は消えず
わが村の午鐘(ひるがね)のおときこゆなり一人庭にゐて聴きにけるかも
冬晴れて村はあかるし午鐘(ひるがね)のおとゆるやかにきこえ来るかも
山がひの二つの村のひる鐘の時の遅速もなつかしきかも

「五、雨の一日」
ふる里に二夜眠れるこのあした雨しとしととふりいでいけり
大きなる藁ぶき屋根にふる雨のしづくの音(おと)のよろしかりけり
のびのびと朝の縁(えん)に立ち門畑の麦の芽にふる雨を見にけり
搾乳夫(ちちしぼり)きたれるからに幼な吾児からかささして厩にゆくも
ふる里の雨しづかなり母も吾(あ)も悲しきことは今日はかたらず
ちちのみの父は厩に行きませり雨はあかるく午(ひる)にしなるらし
父うへの秣(まぐさ)きる音きこゆなり吾児をせおひて厩に行くも
斯くしつつ幾日とどまるわれならむ麦の芽ぬらす雨の静けさ

「六、冬虹」
この夕べ空しぐれつつうす日照り川の向ひに虹たてり見ゆ
おぼほしく冬の虹たてり川むかひ竹の林のひかりは揺(ゆ)れず
冬空に虹たちわたりうら悲しそこはかとなき心のみだれ
この夕べしぐるる空に立つ虹のことさらびたる光さびしも
虹たちて明(あか)れるふゆのたそがれる仔牛ひきつつ人かへる見ゆ
おぼほしく冬虹たちて空明(あか)りいのちさびしもふるさとの道に
冬虹の光まがなしからからと竹をたばぬる音(おと)ぞきこゆる
ふゆ空の虹きえむとす竹山ゆ竹をかつぎて人出で来たり

「八、風吹く日」
風吹きて海かがやけりふるさとに七夜は寝ねて今日去らむとす
馬車おりて吾児(あこ)の手をとり歩みけり沖つ風吹く崖の上の道
崖たかみ外洋青く晴れわたりさうさうとして風吹きやまず
吾児(あこ)が手をとりつつあゆむ崖の上の街道(がいだう)遠く見えにけるかも
まながひに冬の潮風あをあをと光りていたし音(おと)はきこえず
風吹きて海光いたしわがからだはげしき呼吸に充ちにけるかも
いくほどをわれら歩みしあをあをと潮騒光る崖が上の道

大正六年「犬の声」
月寒く夜はふけにつつおぼつかな土あらはなる広原行くも
はてしなく土のつづける夜の原を渦まきとほる木枯しの風
月白く風さえわたりこの原の四方(しほう)ゆおこる犬の長鳴き
月寒く吠えたつ犬のもろごゑのこの野をめぐり夜すがら止(や)まず
月の下を雲ゆくなべに夜の原のあたり小暗く沈みてを見ゆ
息(いき)づみて人眠る街にこの道のふかく入り行く寂しきこの道
ふたところ拍子木の音きこゆなり原のあなたの街の寂しさ

大正六年「転居」
移るべき家をもとめてきさらぎの埃(ほこり)あみつつ妻とあゆめり
けならべて街のくまぐま歩けども小さきよき家ありといはなくに
きさらぎのあかるき街をならび行き老いづく妻をみるが寂しさ
午(ひる)すぎて疾風(はやて)吹き立ちきさらぎの春のほこりは街をおほへり
たまたまに大き明家(あきいへ)を入りて見つ寂しけれどもその大き家を
土(つち)ぼこり白く被(かづ)ける街ばかり眼には見えつつただに疲れぬ
入り来つる小路(こうぢ)のおくにしらけ咲く白梅の花寂しみにけり
いくたびか家は移れる崖(がけ)したの長屋がうちに今日は移れる

大正六年「鬼怒川」
(四月初旬下総結城に故長塚節の宅を訪ふ)
薮かげゆ小舟にのりて水たぎつ鬼怒川わたりぬ春の寒きに
鬼怒川を西にわたりて土踏めば今さらさらに君ししぬばゆ
鬼怒川の川べゆきつつ見さくるや筑波のあたり雲ただに暗し
春寒きふりかけ雨に傘かしげ鬼怒の川べを吾ひとり行く
ゆきゆくと川の堤の水蝋樹(いぼた)の芽白くひかりて雨はれにけり
春の野の大野がなかをみつみつし鬼怒の流れは激(たぎ)ちやまずも
春さむき灰色空にただひとつ雲雀あがりて鳴きの久しも
道入れる雑木林(ざふぼくりん)にひともとの辛夷(こぶし)白花にほひてありけり
きぬ川のつつみ離れてこころぐし竹村つづく街道を行く
しみじみと語らふひまも母刀自はしもべが伴に物のらすかも
君ゆきて母刀自ひとり家のことに心くばらす見つつ悲しも
しもべらはいまだ帰らず大き家の春の夕べの寂しくありけり
春さむみ風呂あみ居れば家裏(いへうら)の竹のはやしを風わたるなり
倉(くら)かげにあまたつちかふ椎茸の匂ひさびしも朝のしめりに
竹林(ちくりん)の日なたに囲(かこ)ふ苗床に芋の芽あかく萌えいでにけり
ここに来て君が命をなげくだに吾が身ともしく思はざらめや
うづたかき堆肥(たいひ)の匂う裏悲し春日あかるくしぬび堪へずも

次のページへ >




-アララギ
-

error: Content is protected !!