雪を詠んだ短歌にはどのようなものがあるでしょうか。
雪を題材にした短歌を北原白秋の他、穂村弘,俵万智,寺山修司,佐佐木幸綱,今野寿美,杉崎恒夫,など、現代短歌の代表的な歌人の各作品から選びました。
どうぞ雪の日に心暖かく鑑賞してください。
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雪の短歌
雪を詠んだ短歌は、伝統的な古いものでは、特にお正月と関連して読まれたものが多いです。
ここでは、現代短歌で、雪を題材とした短歌や、雪が出てくる短歌をご紹介します。
穂村弘の雪の代表作短歌
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
作者と出典
穂村弘「シンジケート」
一首目は、相手が誰とは書かれていないのですが、恋人の仕草のように思えますね。
「雪のことかよ」と、ちょっと醒めた感じのモノローグなのですが、無邪気な相手の様子をほほえましい目で見ている作者の様子が伝わります。
というのは、「ゆひら」を「雪のこと」とちゃんと解説してくれているからですね。
目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき
同じ作者の「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」から。
二首目は、雪とはどこにも書いていないけれども、雪のことだとすぐわかりますね。
なぜだろう。あるいは皆が一度は「ほんかくてき」と思ったことが多いのでしょうか。
これは、雪を見て語った女性の言葉の伝聞をそのまま歌にしたものですね。
雪を詠んだこれらの作品は、穂村さんの代表作としてもよく知られています。
穂村弘さんのレトロな思い出が詰まった最新の歌集もおすすめです。
北原白秋の雪の短歌
君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
作者と出典
北原白秋『桐の花』
よく知られる北原白秋の名作です。夜を共に過ごした恋人との朝に別れる場面。
しっとりとして美しい歌です。
けれども、この恋人というのは、隣の家の奥さんなんですね。
なので「かへす 帰す」ということが、文字通り隣の家に帰ること、帰すことだということがわかります。
この歌の背景と解説は下の記事で詳しく書いています。
俵万智の雪の短歌
母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる
作者と出典
俵万智『サラダ記念日』
この歌は構成がちょっとおもしろく、複雑であることに気が付きます。
「雪」の前に、雪の降る場所を説明するような「母の住む国から降ってくる」と形容詞節がついています。
東京に雪が降っているとは言っていないのですが、おそらく雪が降っているのでしょう。
その場所は作者が一人居る東京なのだけれども、その雪が母と故郷に結び付く、共通の事物として登場しています。
雪を見て作者はふるさとを思い出していて、さびしくなる―その感情が呼び覚まされる時間的な過程と、「から降ってくる」に母と母のいる故郷との距離感、雪と母とのつながりの複数の事柄が、歌の構成によって巧みに表現されているのです。
笹井宏之の雪の短歌
雪であることをわすれているようなゆきだるまからもらうてぶくろ
作者と出典
笹井宏之『歌集 てんとろり』
「雪であることをわすれているようなゆきだるま」という、擬人化された表現で、元々の雪と形になった雪だるまを併置しています。
雪は本当は冷たい寒いものなので、雪の日にこそ手袋をしたいのですね。
雪が手袋をしなければならない原因でもあるのですが、作者も寒い冷たいという雪の属性を離れて、雪が手袋をもたらしてくれたという視点で、「ゆきだるまからもらうてぶくろ」と続けています。
読むにつれて、心が温かくなりますね。
さようならが機能をしなくなりました あなたが雪であったばかりに
同じ作者。
雪というのは、そもそもが、はかない、もろいものというイメージで語られることが多いのです。
はかないはずの雪、すぐに解けてしまう雪なのですが、「あなたが雪」で「さようならが機能をしなくなりました」というのは、その反対のイメージです。
どういうことなのでしょうね。
この作者は、長崎県出身だったので、もしかしたら、雪がめずらしかったのかもしれません。
はかなくもろい雪との出会いなのですが、めったに見ない雪が美しく、それまでは普通に言っていた、自分の中の「さようなら」が雪に対しては、「機能しなくなってしまった」。
自然に別れがたい気持ちになったということを、現代のシステムの一つの故障のように現代的な「機能しなくなってしまった」という表現で表しているのが、ユーモラスです。
不思議な寓意を含む作品です。
笹井宏之さんは、とても好きな歌人です。若くして世を去られてしまいました。雪のように。ほんとうに。
でも「さようなら」ではないですよ。いつも歌を見ています。
中畑智江の雪の短歌
生と死を量る二つの手のひらに同じ白さで雪は降りくる
作者と出典
中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』
歌集タイトルの歌。
どういう状況かはわからないのですが、人の生死に面して、それらを考えるのは大変なことです。
両方の手の一つずつに、生と死を量るという”絵”の部分がまずあって、そのあと「同じ重さ」ではなくて、「白さ」と続きます。
本来ここは「重さ」であるべきなのですが、それが色に置き換えられても、理解が十分にできる、そのような省略がなされています。
杉﨑恒夫の雪の短歌
ああ雪がふっていますね 来る明日は品切れですと神さまがいう
作者と出典
杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』
90歳で亡くなった作者は、明るい軽快な作風の中にも、死を見つめた歌をも詠んでいます。
「ああ雪がふっていますね」が作者の言葉であり、それに対して、神様が答える。
けれども、神様の答えは、雪のことではなく、作者の言う「雪」は既に別のものに転じています。
軽妙な歌でありながら、雪と命を重ねたところが哀切な歌です。
寺山修司の雪の短歌
降りながらみづから亡ぶ雪のなか祖父(おほちち)の瞠(み)し神をわが見ず
作者と出典
寺山修司『田園に死す』
寺山修司は、青森県出身。
この歌人の描く家族には虚構も多いのですが、神が見えるかのような雪の量感は身をもって知るところなのでしょう。
降った雪の中に、その土地に生まれ育った祖父は、神を見ていたのだが、自分はそれを見られない。
「亡ぶ」は雪の述語ですが、おそらく亡くなったのは祖父であり、それが「神を見る」と置き換えられているように思えます。
佐佐木幸綱の雪の短歌
泣くおまえ抱けば髪に降る雪のこんこんと我が腕に眠れ
作者と出典
佐佐木幸綱『夏の鏡』
繊細というそれまでの短歌のイメージを覆す「男歌」という位置にある歌の、代表歌のような作品。
佐佐木幸綱はそれまでの沈思黙考する歌ではなく、行動感覚にあふれたダイナミックなイメージをもたらしました。
「こんこん」の雪が降るさまが美しいものの、作者の他の歌と同じく、どこか加虐的なイメージもひそんでいます。
今野寿美の雪の短歌
放恣なる百日紅の細枝にもとどまりてとどまりて雪積む
作者
今野寿美
とても繊細な観察の歌。
とても雪がのるとは思えないような形の細い細い枝にも、その形をなぞるように雪が積もっていく様子を捉えられました。
良い歌のベースには、良くものを見るということが大切なのは言うまでもありません。
終わりに
今回は現代の短歌から、雪に関する短歌を集めてみました。
どうぞ、雪の日にこそ鑑賞してみてくださいね。