新元号「令和」と「梅花の歌」序文大伴旅人に関するまとめ  

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新元号「令和」と「梅花の歌」序文大伴旅人に関するまとめ

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「令和」の新元号が5月から開始しました。早くも令和生まれの赤ちゃんも誕生したことになりますね。

令和と万葉集との関りはこれまで何記事が書きましたが、この記事では、それらを再度わかりやすくまとめてみます。

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新元号「令和」

5月に入って新元号の「令和」の考案者が万葉学者の中西進氏であることがほぼ明らかになり、中西氏自身が令和の意味を解説されました。

中西進「令和」考案者インタビュー「元号は一国のライフインデックス」

「令和」発案は中西進氏 「万葉集」が重視された理由

「令和」の意味

「令和の意味を述べますと、「令」は「良い」「立派な」「すぐれた」という意味があります。

これまで、例に挙げられた、令嬢、令息の他にも、「令」を使った言葉は数多くあります。

令士は立派な人、令姿は美しい姿、令室は、他人の妻の敬称、令聞はよい評判などを指します。

「令和」考案者の中西進氏が反論/万葉集「令」は命令でなく「うるわしい」

「命令」はこじつけ

また、「令」の字が、命令やおきて、法令などの意味を連想させるという意見については、中西氏は「こじつけ」であると説明しています。

 

万葉集「梅花の歌32首序」との関り

令和と万葉集について、わかりやすくまとめます。

万葉集とは

万葉集というのは、古代の詩歌集です。

短歌の他に、短歌に似た旋頭歌、それから短歌よりももっと長い長歌というもの、それら古代の歌が約4500首収録されたものです。

編纂は、多く大伴家持という人が行ったと言われています。大伴家持は、今回の令和の出典の作者に当たる大伴旅人の息子です。

「令和」の出典「梅花の歌序」の時期と場所

その5巻に収録されたのが「梅花の歌」とその序文であり、これには「天平2年 730年正月13日」と日付が記されています。

新元号「令和」は、この730年の文章から取られたということになります。

その歌が集められ、文章が書かれたのは、九州の太宰府というところです。

序文の作者大伴旅人が、九州の大宰帥(大宰帥 長官のような人)として、九州に赴任。そこで歌の宴を開いたのです。

「梅花の宴」とは

大伴旅人邸で、730年の1月13日に、32人の朝廷の官吏たちや近隣の要職の人を集めて、宴会が開かれました。

旅人はそれを「梅花の宴」と名付けて、そこで、皆が一首ずつ歌を詠もうと呼びかけたのです。

そしてそれらの歌を記録し、最初に序文をつけて、まとめたものが万葉集に載ることになりました。

旅人は、そこにさらに6首の追加の歌と最初に宴会で出席者に呼び掛けた形の臨場感のあふれる序文をつけました。

それらがまとめて「梅花の歌」と呼ばれているものです。

万葉集「梅花の歌32首」現代語訳と解説 大伴旅人序文「令和」の出典

梅花の歌32首の序文

梅花の歌序文の「令和」に関する箇所は

初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)に披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香に薫る。

のところです。

ここは、元々の万葉仮名では

初春令月気淑風和

と記されています。

序文全文は下の記事に

万葉集の「梅花の歌32首」序文全文と現代語訳

大伴旅人の「梅花の歌」短歌

「梅花の歌32首」より大伴旅人の短歌は

我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

読み:わがそのに うめのはなちる ひさかたの あめよりゆきの ながれくるかも

というものです。

 

また、宴の出席者でもあり、主催者側でもある山上憶良(やまのうえのおくら)の歌

 

春さればまづ咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ

読み:はるされば まずさくやどの うめのはな ひとりみつつやはるひくらさむ

現代語訳と意味:
春になるとまず咲く我が家の梅の花を、一人で見ながら、春の日を過ごそう

というものです。

32首全部の歌は下の記事にあります。

万葉集「梅花の歌32首」現代語訳と解説 大伴旅人序文「令和」の出典

 

この記事はこの後も書き継いでいきます。




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