文アル斎藤茂吉 人物像と他のキャラクターとの交流関係  

広告 斎藤茂吉

文アル斎藤茂吉 人物像と他のキャラクターとの交流関係

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文アルこと、文豪アルケミストの斎藤茂吉をちょっと見てみました。

斎藤茂吉の画像、アニメーションのキャラクターにはびっくり! それ以外は、結構史実に基づいているなという感じです。

文アルの茂吉のセリフ、森鴎外、芥川龍之介ほかのキャラクターとの関わりなどを説明します。

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文豪アルケミストの斎藤茂吉

文豪アルケミストの斎藤茂吉について、ネットで読んでみましたが、人物関係が詳細で、見知ったセリフも多く出てくるので、面白かったですね。

斎藤茂吉の人物像

ただ人物像としては、石川啄木などと比べると、ちょっと弱いかなという感じはします。

斎藤茂吉は、精神科医で歌人、性格は変わったところはありましたが、文豪には、薬の中毒になったり、自殺を企てたり、借金まみれだった李と、もっとずっと変わった破天荒な人物がいますね。

斎藤茂吉は、その点、ちゃんと仕事をして、人に尊敬される業績もあり、社会人としてまっとうな人でした。

斎藤茂吉の最も有名な短歌は

 

斎藤茂吉の文アル画像

斎藤茂吉のキャラクターの画像と、本物を比べてみました。

ukushihoken.metro.tokyo.lg.jp

文アルの斎藤茂吉がこちら

https://www.mokichi.or.jp/about-mokichi/rough-anniversary/

茂吉の若い時の写真はこちら。

茂吉はこの写真では洋装ですし、もちろん、その後ドイツ・オーストリア留学もしていますので、写真では服装はちゃんとしていますが、勤めから帰ると実際は

竹の短いつんつるてんの袴をはいて、平気で街中を闊歩された。足袋のこはぜのかかっていないのを見て、町の小娘が笑うこともあった

というだらしなさでした。

さらに、奥さんであるてる子夫人がかまわなかったので、靴下は破れたままのを履いており、破れた靴下が目立つので、足の方に墨を塗って黒くしてごまかしたという逸話も伝わっています。

それに比べると、アニメーションとはいえ、すてき過ぎるキャラクター画像ですね。

 

斎藤茂吉の交流

文アルで出てくる斎藤茂吉と交流のあったキャラクター文豪たちは、数多くいますが主要なのは、伊藤左千夫、森鴎外、北原白秋などでしょうか。

伊藤左千夫は斎藤茂吉の短歌の先生

伊藤左千夫は、斎藤茂吉が短歌を始めた時のアララギの先生です。

アララギというのは、歌の雑誌、同人誌の名前です。

伊藤左千夫は、実は最初それほど茂吉の才能を高く買っていたわけではなかったようです。

また、途中で仲たがいをしたので、斎藤茂吉の才能を認めないまま、伊藤左千夫が急に亡くなってしまいます。

斎藤茂吉は最初の歌集『赤光』を伊藤左千夫に見せようと用意して出版を待っていたのですが、伊藤左千夫には見せられませんでした。

初版の『赤光』は、伊藤左千夫が亡くなった知らせを受けて、駆け付ける時の様子を詠んだ作品から始まっています。

正岡子規はアララギの創始者

正岡子規は、斎藤茂吉は、実際に会ったことはありません。ただし、茂吉が短歌を始める前に、正岡子規の短歌を詠んで感銘を受け、そこから、茂吉の短歌への志が始まりました。

正岡子規は、上の伊藤左千夫の師でもあります。

森鴎外は短歌の仲間

森鴎外は、斎藤茂吉と同じ医師で、短歌の仲間でもあります。

森鴎外が自宅で行っていた歌の会「観潮楼歌会」に伊藤左千夫ともに出席をしたのが最初です。

医師同士としての交流はそれほど伝えられていませんが、むしろ、歌の会で学ぶところが大きかったと思われます。

斎藤茂吉が森鴎外を尊敬していたのは確かで、幸田露伴の他に、森鴎外を「この二人だけは「先生」と呼んでいた」とされています。

芥川龍之介は患者

芥川龍之介は、文人同士というよりも、医師と患者の間柄でした。

斎藤茂吉が主治医として、睡眠薬を処方した時期もあったようです。

しかし、芥川はその後、睡眠薬の自殺を遂げてしまい、茂吉は自殺を止められなかったことで、大変残念な思いをしたようです。

なお、芥川とは、短歌の上での交流はありませんが、芥川は茂吉の短歌と歌集『赤光』を称賛しています。

北原白秋は歌の友だち

北原白秋は、派は違うのですが、短歌の友人といってよく、手紙で茂吉が白秋の歌をほめて、教えを乞うところもあります。

他にも、互いの作品に啓発されて、似た歌を詠んでいることはひじょうに多くあり、初期に共有したテキストが『梁塵秘抄』で、双方がその中の歌にモチーフを得た作品を発表しています。

白秋との交流は、茂吉にとって、大きな刺激となったと思われます。

他にも

吉井勇…歌人で友人 吉井の妻と茂吉の妻が知り合いで、共に「ダンスホール事件」で被害に遭った。吉井は妻と離婚後に再婚。

中野重治…斎藤茂吉と交流があり、後に斎藤茂吉の短歌を解説する本を出している。

・・・

他の人物についても、思い出したら書き足します。

 

斎藤茂吉の逸話

斎藤茂吉の主要な逸話についてです。

斎藤茂吉の「鰻」のエピソード

文アルにも「鰻」のエピソードが見られますが、斎藤茂吉が鰻好きだったのは、有名な話です。

多い時には、数日に1回は食べていたようですが、これは、滋養や健康によい、鰻を食べると元気になる」と茂吉が思い込んでいたからのようです。

隣の人に取り換えてもらった

ネットではよく、斎藤茂吉が会食の折り、隣に座った人の鰻の方が大きく見えたので、「隣の人に鰻を取り替えてもらった」逸話が紹介されていますが、北杜夫氏の記載によると、これは、「魚」であったと覚えています。

外食で食べたものは、よく日記に記されたようで、そこから「鰻を920回あまり食べた」との計算があります。

 

斎藤茂吉の人物像

斎藤茂吉は、日本の大歌人であると同時に、留学もして大病院の院長を務める精神科医でした。

医師としての地位も、歌人としてももちろん日本中の人に尊敬される立場にありました。

しかし、生活は、婿養子であったのでつつましいものであったようです。

また、勤務医の時も院長職になってからも、大変に忙しい生活でした。

奥さんであるてる子夫人とは、性格が合わず不和続きでしたが、子どもや孫のことは可愛がり、次男の北杜夫氏は「子ぼんのうだった」と述べています。

医師で院長職とはいっても、決して華やかな生活ではなく、中学生で親を離れて養子となり、30歳を過ぎてやっと婿と認められて結婚できた妻とは不仲で、家庭生活は不満の多いものでした。

斎藤茂吉に歌を習った人は、茂吉を「不幸な人だった」とも述べています。

その通り、悩みが多く、孤独な人であったことも短歌からは読み取れます。

斎藤茂吉の性格

斎藤茂吉の性格については、同じ精神科医であった斎藤茂太さんと北杜夫さんが、クレッチマーの分類の「粘着気質」であったと書いています。

鰻を繰り返し食べるなども、その性格の表れとも言えます。

また、斎藤茂吉は、大変な癇癪もちで、怒りを抑えるためにテーブルに身体を押し付けたり、女中を怒鳴って外出したというようなことも自ら短歌に読んでいるくらいです。

文アルの伊藤左千夫のセリフにもありますが、「熱心に議論」をするとなると、穏やかな内容ならともかく、歌人の太田水穂との論争の折には、文中で相手を罵るようなこともありました。

ちょっと変わったところのあった人であったのには違いありませんが、それだからこそ、短歌の方に才能を発揮できたといえると思います。

以上、斎藤茂吉の文アルから、補足できそうなところをご紹介しました。

斎藤茂吉のプロフィールについて詳しくは、以下の記事を参照してくださいね。

斎藤茂吉の作品と生涯 特徴や作風「写生と実相観入」




-斎藤茂吉

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