誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば
藤原俊成(ふじわらとしなり)の代表作として知られる、有名な短歌の現代語訳、品詞分解と修辞法の解説、鑑賞を記します。
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誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば
読み: たれかまた はなたちばなに おもいいでむ われもむかしの ひととなりなば
作者と出典
藤原俊成(ふじわらのとしなり)
新古今和歌集 巻第三 夏歌 238
現代語訳と意味
私が花橘の香をかいで昔の人を思い出すのと同じように、私が死んだあとに、このように私のことを誰かが思い出すのだろうか。
句切と修辞法
- 3句切れ
- 倒置
語句と文法
- たれか…現代語の「だれ 誰」。「か」は疑問の格助詞 ※係り結び(下に解説)↓
- 花橘…さつき科の植物のその花
- 出でむ…「む」未来・推量の助動詞 係り結びの已然形
- なりなば…「なり」+「な」(完了の助動詞「ぬ」の連用形)+「ば」は仮定の助詞
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解説と鑑賞
藤原俊成の代表作といわれる短歌。
花橘の香
和歌において「花橘」または、橘の花は、人を思い出すよすがとして、登場する植物の一つです。
最も有名な歌は、古今和歌集の「さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」が挙げられます。
この歌はその歌を本歌取りとしています。
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「昔の人」の意味
本歌「さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」の「昔の人」は別れてしまった友人や恋人を思われますが、藤原俊成のこの歌の「昔の人」というのは自分自身です。
自分が亡くなって、過去の人となってしまったら」という仮定の下に詠まれた歌です。
花橘の香りに昔の人を思い出す」というのは、本歌を踏まえたもので、それ以上に、花の香りに人を思い出す」ことが、ほぼ常套化された行為であることから、作者自身もそうしている。
「誰かまた」の「また」に連続性
その行為の連続性を想定させるのが、「また」の副詞の部分、それから、「我も」の「も」の助詞の部分です。
「我も」ということは、他の「昔の人」は既に故人であることが分かります。
作者の心情のポイント
この歌は、本歌と同じ「昔の人」とはいっても、単に生き別れた思い出の人ではなく、故人を懐旧する歌であり、その行為を今度は自分を起点にして述べた歌です。
本歌とは主客を逆にしているのが、ポイントです。
そうすることで、歌全体になつかしさだけではなく、そこはかとない寂しさが漂います。
このような寂しさやわびしさをベースにした歌が、藤原俊成の特徴でもあり、俊成自身が提言した「幽玄」を表す具体例となっていることが分かります。
藤原俊成について
藤原俊成(ふじわらのとしなり)
1114-1204 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。〈しゅんぜい〉とも読む。「千載和歌集」の撰者。歌は勅撰集に四百余首入集。
小倉百人一首 83 「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」の作者。作歌の理想として〈幽玄〉の美を説いた他、『新古今和歌集』(1205)や中世和歌の表現形成に大きく寄与。
歌風は、不遇感をベースにした濃厚な主情性を本質とする。
藤原定家は子ども、寂連は甥、藤原俊成女は孫だが養子となった。他にも「新古今和歌集」の歌人を育てた。