梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ
藤原定家の新古今和歌集に収録されている有名な和歌の現代語訳と意味、表現技法の解説、鑑賞を記します。
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梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ
現代語での読み:うめのはな においを うつす そでのうえに のきもる つきの かげぞ あらそう
作者と出典
作者:藤原定家 新古今和歌集 巻第一 春歌上 44
現代語訳と意味
梅の花が匂いを移している私の袖の上に、軒端をもれてさし入る月の光が上の匂いと競い合って映っている
語句と文法
- 梅の花…花のあとに「の」が省略されていると考えることもできる
- 移す…「下句で月の影がうつる」というべき「映る」を暗示する。下句では重複を避けるため「あらそふ」とした
- 軒…屋根のふきおろした端。のき。ひさしの部分。
通常は月は軒より上にあるので「漏る」とした - 月の影…月の光のことをいう
- あらそふ…梅の香りと月の光とが両方そこにあることを、このように表現した。擬人法にあたる
句切れと表現技法
- 初句切れ
- 掛詞
- 擬人法
- 係り結び
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解説と鑑賞
袖の上の梅の花の香と月の光の明るさを合わせて一首に詠み込んだ、美しさあふれる藤原定家の秀歌の一つ。
「院初度百」の一首で、新古今集にも入選。
梅の香りが袖にうつるというのは、読み手に梅の強い香りを思わせる。この時代には「香をたきしめる」として、衣服や手紙などの紙類に香りを移すことが行われたが、それと同じような条件なのだろう。
そのように梅の香りがふくいくと漂う袖にさらに月の光が降り注ぐというのが、一首の情景である。
一首に用いられる和歌の修辞法
一見すんなりと読める歌なのだが、さまざまな和歌の修辞法が駆使されている特徴がある。
「あらそふ」の擬人法
「あらそふ」は。主語が、「梅」と「月の影」になる擬人法。
この擬人法の部分については、「この一首は速度のある緊張した韻律が、そのような技法をさえ感じさせぬほど快適である」と塚本評にある。
字余り
3句「袖のうへに」の部分は、6文字で字余り
係り結び
結句の「月の影ぞあらそふ」の部分は、「ぞ・・・連体形」の係り結びとなっている。
「袖にうへに」の余る一音も、むしろ詰屈として梅の枝ぶり、月光の鋭さ、詠者の姿勢をしのばせて効果があり、連体形係り結びの結果も四段活用のため終止形と同じく流動感を妨げぬ。月もしくは月影で結んであったならば、この アレグロ の爽快さは殺されていたろう。(『定家百首』より)
塚本邦雄のこの歌の総評
目に見える香りと見える光が相和相克するのも斬新であり、例えば古今集あたりに多い理智の混ざったことわりがましさを全く感じさせない。香りと光の交響、その背後に一脈の凛とした悲しみが漂うのもさすがと言うべきであろう。(同)
袖と涙
この歌の解釈には、「袖が涙にぬれていた」と記すものがあるが、歌人の塚本邦雄は、「評釈書に従えば、袖は涙に濡れていてそれに月光が映ずるとあるが。濡れずとも月の光はもともと水のように夜の世界を流れ、物象を浸すものである」としてこれを否定している。
藤原 定家について
藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。
読みは「ていか」と読まれることが多い。父は藤原俊成。
日本の代表的な新古今調の歌人。『小倉百人一首』の撰者。
作風は、巧緻・難解、唯美主義的・夢幻的といわれている。