後鳥羽院の和歌代表作 新古今和歌集と百人一首から  

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後鳥羽院の和歌代表作 新古今和歌集と百人一首から

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後鳥羽院の和歌が、朝日新聞で歌人の高野公彦さんに紹介されました。

後鳥羽院は、新古今和歌集を作らせた人物としても有名で、和歌にたいへんに秀でていました。

後鳥羽院の和歌をご紹介します。

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後鳥羽院と和歌

後鳥羽院は、天皇を退いてからの呼び名で、院となったのは、20歳の時でした。

天皇の和歌は、万葉集から、古今、新古今に至るまで、歌集に収録されていますが、中でも後鳥羽院は、大変に多芸であり、和歌に関しても趣味程度ではなく、一流の腕前を持っていました。

新古今集を編纂した後鳥羽院

後鳥羽院の功績は、自らが和歌を読んだというだけではなく、藤原定家に命じて、新古今和歌集を作られたということです。

また、歌合という、歌の会、といっても峻烈に歌の腕前を競う和歌の試合のようなものですが、その催しを企画しました。

中でも、千五百番歌合が規模が大きかったものとして知られています。

そして、これらの歌合が、歌集の成立へと結びつきました。

 

後鳥羽院と藤原定家

後鳥羽院が和歌を習ったのは藤原俊成です。

ただし、その息子である藤原定家とは仲が悪かったことが知られています。

不仲の原因は、最勝四天王院の障子和歌の選定にあり、自分の和歌が採られなかったことを恨んだ定家が、後鳥羽院は歌を見る目がないと誹謗、怒った後鳥羽院が低下を勅勘処分としたというエピソードがあります。

 

後鳥羽院の和歌代表作

後鳥羽院の和歌の代表作として知られている歌は、百人一首の99番の作品が一番有名です。

 

人もをし人も恨めしあじきなく世を思ふゆえに物思ふ身は

読み:ひともおし ひともうらめし あじきなく よをおもうふえに ものおもうみは

作者と出典

後鳥羽院 百人一首 99

現代語訳と意味

人間がいとおしくも恨めしくも思われる。この世はどうにもならないものであるがゆえに、物思いをする私であるよ

解説

鎌倉幕府と朝廷の対立に置いて、君主の嘆きの表れた歌です。

幕府との間で不満に耐え忍んだ後鳥羽院ですが、この19年後に承久の乱を起こして、その後隠岐に流されることとなるのでした。

 

ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく

読み:ほのぼのと はるこそそらに きにけらし あまのかぐやま かすみたなびく

作者と出典

太上天皇(だじょうてんのう)後鳥羽院 新古今集2

現代語訳と意味

ほのぼのとまさしく春は空に来たなあ。あのように夜明けの天の香久山に霞がたなびいている

 

 

今回、朝日新聞に承久の乱に関して、歌人の高野公彦さんが紹介したのが、下の二首です。

高野さんが好きだというのは下の歌、後鳥羽院の傑作とされる歌です。

 

み吉野の高嶺の桜散りにけりあらしも白き春のあけぼの

読み:みよしのの たかねのさくら ちりにけり あらしもしろき はるのあけぼの

出典

後鳥羽院 新古今集133

現代語訳と意味

吉野の高嶺の桜が散ったのだな。吹き降ろす山風も真白に見える春の曙よ

解説

『最勝四天王院障子和歌』に掲げられた桜の花を詠んだ絵画的な一首です。

『最勝四天王院障子和歌』とは

後鳥羽院が、白河に建てた御堂の障子に、障子絵を飾り、そこに日本全国の名所四十六か所を題として和歌を詠んだのが、『最勝四天王院障子和歌』です。

当時の著名歌人九人に詠進させて自らも詠んだのがこの作品です。

山風が桜で白く見えるというところが、歌の眼目ですが、「白く見える」ではなく、「あらしも白き」として、下句の美しい風景を描き出しています。

いかにも障子絵にふさわしい風景と言えるでしょう。

なお、この歌は、塚本邦雄も後鳥羽院の名作の一つにあげています。

 

他にも後鳥羽院の名作とされる歌は下の作品

桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな

出典

新古今和歌集 99

現代語訳と意味

桜の咲く遠山、それは山鳥の長く垂れた尾のように、永い春の一日中、眺めていても飽きない色であることよ

天皇らしい、おおらかな調べです。

本歌は柿本人麻呂の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」です。

 

奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人にしらせむ

読み:おくやまの おどろがしたも ふみわけて みちある よぞと ひとにしらせん

出典

太上天皇こと後鳥羽院 新古今集1635

現代語訳と意味

奥山のおどろ、灌木のしたまでも 踏破して、厳然と道のある世の中だということを、人々に知らせねばならぬ

解説

雑歌中の山を詠んだ一連の山の歌の中の一首ですが、現在の朝廷と幕府の関係への不満が籠められています。

正しい政治の道が記念されています。

高野公彦さん解説

高野さんの解説だと

これは山の歌とされているのですが、実は、鎌倉幕府を意識しており、天皇である私が治めればこんないい世の中になるのだと広く知らせたい、との寓意があるとも言われています。―朝日新聞より

となっています。

天皇でありながら、一流の歌人と匹敵する腕前と感性を持った後鳥羽院、政治的には不遇でしたが、他の天皇に比べて強く名前が記憶されているのはやはり、和歌の作品が残っていたからに他なりません、

また、歌合や新古今集を編纂させて残したことでも、政治以上に時代の文化を率いた人物とも言えるでしょう。

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