与謝野晶子

『君死にたまふことなかれ』の時代背景 トルストイの論文も影響

『君死にたまふことなかれ』は与謝野晶子の代表作の詩です。

この度、ウクライナ語に翻訳して送られたというニュースが入りましたが、この詩はロシアのトルストイの論文に影響を受けて書き上げられたという説があります。

『君死にたまふことなかれ』の成立とこの詩が素晴らしい理由について記します。

 

「君死にたまふことなかれ」がウクライナ語に

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「君死にたまふことなかれ」は明治生まれの歌人で詩人でもある与謝野晶子が日露戦争に従軍した弟に呼びかける内容の詩または長歌です。

この詩をウクライナの人に読んでもらおうと、118年を経てこの度ウクライナ語に翻訳がなされました。

 

※「君死にたまふことなかれ」の全文と訳はこちらで読めます。

「君死にたまふことなかれ」作者与謝野晶子の意味と現代語訳

※与謝野晶子の代表作短歌

与謝野晶子の代表作品一覧 情熱の歌人5万首の短歌と詩

 

「君死にたまふことなかれ」の内容

「君死にたまふことなかれ」は5段に渡る長い詩で内容をまとめると

武器を持って人を殺せというのは、親の教えでも商家の教えでもない。天皇がそういうとも思われない。旅順が滅びてもよい、父を亡くしたばかり母の嘆き、残された新妻を思えば、自分ひとりの身ではないのがわかるだろう。弟よ、必ず死なないでいよ。

というものです。

 

「君死にたまふことなかれ」の時代背景

この詩が書かれて発表されたのは、1904年8月のこと。

日露戦争で日本軍が旅順を包囲したというニュースが流れたことから、与謝野晶子が弟を思って一気に書き上げたと言われています。

日露戦争は、1904年2月8日 から始まり、 1905年9月5日に集結しました。

日露戦争とは

日露戦争は朝鮮半島と満州の利権争いに始まる日本とロシアの戦争です。

日露戦争は、1904年2月から1905年9月にかけて大日本帝国と南下政策を行うロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満洲の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満洲南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。 -出典:フリー百科事典 日露戦争

日露戦争の死者数

日露戦争の死者数は約8万8千人、負傷者は15万人にも及んだといわれています。

旅順攻囲戦について

与謝野晶子の詩には、前書きに「旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて」とあります。

旅順攻囲戦は1904年8月、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いのことを指します。

旅順での日本の勝利は、大々的に報道をされましたが、晶子はその報を受けて「死にたまふな」と弟に呼びかけたのです。

 

『君死にたまふことなかれ』と反戦

ただし、与謝野晶子自身が反戦論のためにこの詩を記したのかというと、そうではないと思います。

後に、この詩が大町桂月によって批判を受けた時に、与謝野晶子は

当節のように死ねよ死ねよと申し候こと、又なにごとにも忠君愛国の文字や、畏れおほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方、却りて危険と申すものに候はずや

と述べたのみにとどまります。

また、与謝野晶子の反論に対する主張の主眼は、詩歌の真実という点でした。

歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候、まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。

「歌は歌に候」というのは、あくまで詩歌の真実性の主張であって、けして「戦争がいけない」というものではありません。

これを読んでわかるのは、晶子が『君死にたまふことなかれ』で言いたかったのは、戦争の否定ではなく、肉親と家族の情が「死ね死ね」という風潮の対極にあるというその真実を述べたものなのでした。

 

「君死にたまふことなかれ」に影響した作品

『君死にたまふことなかれ』の詩のモチーフを作品として成立させる上で、与謝野晶子が影響を受けたと思われるものがあります。

・与謝野鉄幹の短歌

・トルストイの論文

・幸徳秋水の反戦論

 

与謝野鉄幹が詠んだ反戦の短歌

一つは明治33年に与謝野鉄幹が詠んだ一連の歌です。

ひんがしに愚かなる国ひとつあり いくさに勝ちて世に侮らる

大君の御民(みたみ)を死ににやる世なり 他人(ひと)のひきゐるいくさのなかへ

創(て)を負ひて担架のうへに子は笑みぬ 嗚呼わざはひや人を殺す道
-明治33年4月『明星』10月号掲載

この歌より5年前の日清戦争と、直前の義和団の乱、別名北清事変を詠んだものです。

義和団鎮圧のためにイギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアと日本の8か国が派兵しました。

鉄幹はそれらを一首目で痛烈に皮肉った上で、「死ににやる」「人を殺す」と反戦の思想をはっきりと主張していることが見て取れます。

その他の鉄幹の詩にも同様の思想がうかがえるものがあり、これら鉄幹の先行する作品は、やはり『君死にたまふことなかれ』に受け継がれたといえるでしょう。

 

トルストイの反戦の論文

もう一つ、与謝野晶子に影響を与えたと思われるのは、平民新聞に掲載されたトルストイの論文です。

平民新聞は(1904年8月7日、幸徳秋水他が、トルストイがロンドン・タイムズ1904年6月27日に寄稿した非戦論「悔い改めよ」を訳して掲載しました。

「戦争はまたも起こってしまった。誰にも無用で無益な困難が再来し、偽り、欺きが横行し、そして人類の愚かさ、残忍さを露呈した」

ロンドンタイムズに寄稿されたこの文章は、単にトルストイの考えを示しただけではなく、世界に向けて戦争を止めようと呼びかける内容です。

トルストイの日露戦争論は大きな反響を呼び、翻訳者の幸徳秋水らはもちろん、後に石川啄木もこの論文に触れた文章を新聞に掲載しています。

トルストイの論文が掲載された日

なお、この論文が掲載された8月7日が、与謝野晶子の詩の前書きにある旅順を日本軍が攻囲した日にあたります。

もちろん、与謝野晶子は旅順のニュースとトルストイの論文の両方を読んでいたと思われます。

 

幸徳秋水の反戦の文章

トルストイの論文の掲載されたのは、幸徳秋水らが刊行していた社会主義傾向の強い平民新聞においてです。

平民新聞にはそれまでにも幸徳秋水の「吾人は飽くまで戦争を非認す」などの文章も載せられていました。

諸君今や人を殺さんが為めに行く、否ざれば即ち人に殺されんが為めに行く、(中略)吾人諸君と不幸にして此悪制度の下に生るるを如何せん、行矣、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。
嗚呼従軍の兵士、諸君の田畆は荒れん、諸君の業務は廃せられん、諸君の老親は独り門に倚り、諸君の妻兒は空しく飢に泣く、而して諸君の生還は元より期す可らざる也、而も諸君は行かざる可らず、行矣、行て諸君の職分とする所を尽せ、一個の機械となって動け、然れども露国の兵士も又人の子也、人の夫也、人の父也、諸君の同胞なる人類也、之を思うて慎んで彼等に対して残暴の行あること勿れ。 「兵士を送る」(1904年 2月)

 

『君死にたまふことなかれ』のすばらしさ

与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』成立の背景には、このような作品や文章を読んだことが大きく影響したと思われます。

しかし、けっして思想的な影響を受けたというのではありません。

もちろん晶子と兄弟でも親しくしていた弟宗七への強い思いがあったのは間違いありませんが、この詩の成立には時代背景や社会状況はいうまでもなく、これらの先行する思想や作品があり、与謝野晶子がそれらを上手に取り入れて作品として成立させたと言えると思います。

この詩のすばらしくもすごいところは、これらの先行する作品を取り入れながら、けして抽象的な反戦というのではなく与謝野晶子のオリジナリティーが強く感じられるところです。

自分の家族の身に重なる戦争であったからこそ、弟の正業はもとより、姉、母、妻を登場させ、説得力のあるものとして成立した、それが『君死にたまふことなかれ』なのです。

もっといえば、たまたま弟が「旅順」に関する舞台におり、タイムリーに旅順攻囲のニュースが流れたということが、与謝野晶子の創作意欲に結び付いたともいえるかもしれません。

なお、『君死にたまふことなかれ』はウクライナ語に翻訳をされ、ウクライナに送られることとなりましたが、見えないところにロシアの文豪トルストイの思想が影響しているということは知っておいていただきたいと思います。

この詩がウクライナとそしてロシアに平和をもたらすものとなりますように。




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