与謝野晶子の詩『君死にたまふことなかれ』に歌われた弟はその後どうなったのか気になりますよね。
弟宗七は日露戦争から無事生還し、与謝野晶子の死後2年経って亡くなりました。
「君」とは与謝野晶子の弟
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与謝野晶子が代表作である詩『君死にたまふことなかれ』に歌った「君」というのは、晶子の弟のことです。
この詩の冒頭は
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
であり、その前に
「旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて」
との前書きが入っています。
この弟について詳しくお知らせしていきます。
※『君死にたまふことなかれ』の全文はこちらから
※与謝野晶子の短歌は
与謝野晶子の代表作品一覧 情熱の歌人5万首の短歌と詩
与謝野晶子の弟の名前
与謝野晶子は与謝野家の三女で、弟は2歳下で男子では末子ですがその下に妹が2人います。
弟の名前は「宗七(そうしち)」となっていますが、幼名は「籌三郎(ちゅうざぶろう)」。
宗七は晶子の父の名前で、籌三郎は後にこの名前を継いで、宗七を名乗ることとなりました。
与謝野晶子の本名
宗七と晶子の姓は「鳳」と書いて読みは「ほう」。
与謝野は与謝野晶子の結婚後の姓です。
ちなみに晶子の名前の本名は「志(し)よう」が名前で、晶子は後の筆名です。
結婚前の名前は「鳳志よう」というのが、与謝野晶子の本名でした。
戦争は日露戦争
この詩が書かれたのは1904年のことで、当時日本はロシアに派兵、日露戦争の真っただ中でした。
1904年8月7日に旅順包囲のニュースが流れました。
与謝野晶子はその報を受けて弟を思い、この詩を書きあげたと言われています。
旅順包囲のニュースに
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、(後略)
旅順とは、朝鮮半島の西に位置する都市で、中国の地名です。
「旅順」はこの時の戦争の舞台であった中国の地名で、「旅順包囲」のニュースの後でもあり、実在の地名を出しているので当然物議をかもしたと思われます。
弟は旅順に送られたのか
この辺りは伝聞でのみ伝えられていることですが、与謝野晶子の弟宗七は当初「後備第四旅団後備第八聯隊」で轄重輸卒として旅順包囲の半年前に召集を受けたとされています。
そして、この部隊は旅順攻略のための第三軍に加えられ、宗七はそこでは、旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していたことがわかっています。
旅順の場所
弟は老舗和菓子店の店主
与謝野晶子の生家は「駿河屋」という老舗の和菓子店でした。
父親が亡くなり、父の名前の「宗七」を名乗る弟は、駿河屋の主人となっていました。
堺の街のあきびとの
老舗を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
『君死にたまふことなかれ』の2段目の「老舗を誇る」「親の名を継ぐ」はそういう弟を取り巻く状況ををつぶさに伝えています。
結婚したばかりの弟
しかも、弟は結婚後たった10カ月の身でありました。
暖簾のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻を
君忘るるや、思へるや。
十月も添はで別れたる
少女ごころを思ひみよ。
詩の4段目は残された母に、最後の段は、その新妻に思いを重ねて切々と歌い上げられています。
この詩が胸を打つのは、単に姉一人の思いではなく、弟を取り巻く家族の状況を入れることで、弟がいかに大切な一人の人間であるかを知らしめているのです。
弟はどうなった
旅順での包囲で成功を収めたわけですが、日露戦争全体の死者数は8万4千人に及んでいます。
しかし、宗七は無事帰還しました。
というのも、読み書きに堪能であったため書記に任ぜられた弟は実際には戦闘にはほとんど出なかったとも伝えられています。
弟が亡くなったのは与謝野晶子の死の2年後
帰還した弟は無事、母と新妻と再会することができました。
そして、和菓子店の主人をつとめあげ、亡くなったのは与謝野晶子が62歳で亡くなった昭和17年の2年後の昭和19年に亡くなっています。
与謝野晶子と兄弟との関係
弟は与謝野晶子にも似ていたらしく、ある意味文章が達者であるその特技のために戦争を生きられたと言えるかもしれません。
晶子の長兄「鳳 秀太郎(ほう ひでたろう)」は、東大の電気工学の教授になっており、弟宗七も和菓子屋を継がなければあるいは文筆の道でも身を立てられていたかもしれません。
晶子はその兄あての手紙で「待ちに待った7月になったが、兄から帰省日の知らせがないので心細い」と書き出し、「 よひよひに 天の川なみ こひながめ 恋こふらしと しるらめや君」との歌を書き送ったことがあります。
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兄弟と絶縁していた与謝野晶子
しかし、与謝野晶子は鉄幹との道ならぬ恋で実家を出奔、鉄幹との結婚を機に実家とは絶縁となっていました。
弟宗七とも一時連絡は途絶えていましたが、その後与謝野晶子は有名な歌人となり、また父の宗七がなくなったためもあって、その頃は実家からも認められ、行き来も再開していたようです。
弟とも兄弟の中では親しい間柄となっていました。
元々、長兄が家を継がずに電気工学の研究者となったために、与謝野晶子が期待されていた跡継ぎにはならなかったために、弟が和菓子屋の主人となったのです。
そのため、与謝野晶子は弟に迷惑をかけたとして、弟の幸せを誰よりも願っていたと言えます。
与謝野晶子の生家跡
与謝野晶子の生まれた駿河屋は現在はなくなっており、与謝野晶子の生家跡として歌碑が立っています。