和歌

しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもなが 静御前『吾妻鏡』

しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもなが 『吾妻鏡』より静御前の和歌の意味と現代語訳、詠まれた背景を解説鑑賞します。

『吾妻鏡』はテレビドラマ『鎌倉の13人』の元となった歴史書で、鶴岡八幡宮での舞はドラマでも繰り返し取り上げられる名場面の一つです。

『吾妻鏡』とは

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『吾妻鏡』はテレビドラマ『鎌倉の13人』でも取り上げられて話題になっています。

ドラマの物語の根拠となっていると言われていますが、ドラマでは脚色がなされているため、史実と違うところもあります。

『吾妻鏡』は13世紀末からあ14世紀はじめに鎌倉幕府の関係者が記した51冊からなる歴史書です。

『吾妻鏡』の内容

『吾妻鏡』は北条氏の事跡を礼賛する傾向が強く、北条氏による支配を正当化するために作られたのではないかとも言われています。

というのは、源頼朝の死去に関する事実が記されていない、、他にも有力な武士だった上総広常の死にも触れられていないなど、歴史書として読むには不自然なところが多くあるためです。

ストーリーは面白く親しみやすいと言われていますが、

北条氏サイドの特定の目的をもって編纂された、そういう目的のある歴史書だということは念頭において読む必要があるでしょう。

その中から、ドラマの主要な登場人物の一人である静御前の和歌についてご紹介します。

 

しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもなが 解説

現代語での読み:しずやしず しずのおだまき くりかえし むかしをいまに なすよしもなが

作者

静御前 しずかごぜん

現代語訳と意味

静よ静よと繰り返し私の名を呼んでくださったあの昔のように懐かしい義経様の時めく世に今一度したいものよ

語の解説

  • しづ・・・しづは古代織物の一種。自分の名前の「静」との掛詞。
  • をだまき(苧環)・・・しづ布を織る為の糸の績麻{うみお}を玉のように巻いた糸玉のこと
  • なす・・・「成す」 作り上げる 成し遂げる
  • よしもがな・・・「よし」は手立ての意味。「もがな」は「であってほしい」の意味の終助詞

 

修辞と表現技法

  • しづやしづ・・・反復
  • 「しづや…をだまき」は「繰り返し」の序詞
  • 「繰り返し」は実際に「しづやしづ」と「しづ」を2回繰り返したことをいう
  • 本歌取り・・・伊勢物語三十二段、「古のしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」

 



 

和歌の背景

この歌の背景について先に記します。

作者 静御前とは

静御前は 白拍子と言われる職業出身の女性。

白拍子は、踊りを踊りながら歌うのが表向きの役割ですが、いわゆる遊女とされています。

白拍子の歌った歌は「今様」と呼ばれるジャンルの歌謡で、これらは『梁塵秘抄』に収録されています。

有名なのは「仏は常にいませども」「舞え舞え蝸牛」などがあります。

※『梁塵秘抄』の解説は下の記事をお読みください。

 

源義経との関係

静御前とは京都出身の白拍子であった後、源義経の妾となったとされています。

この歌は、その義経への思いを歌ったものとされます。

鶴岡八幡宮で歌われた

この和歌が歌われた場所は鎌倉の鶴岡八幡宮で、静を呼んだのは、源頼朝の妻である北条政子です。

静が舞の名手であると聞き、神前でこれを舞わせたものですが、上のような義経への思慕の歌を歌ったために、源頼朝の不興を買ったとされています。

政子がその場をとりなして事なきを得ました。

『吾妻鏡』の鶴岡八幡宮の舞の記載

この歌を含む『吾妻鏡』での記載は下の通り。

  静先ず歌を吟じ出して云く、
よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき
次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、
しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな
誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。

最後の

誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。

は、舞が美しく壮観であり、歌声も美しく、そこにいたものは身分の差にもかかわらず一様に感動したというものです。

「梁塵」は梁の上の「ちり」のことですが、「梁塵を動かす」の「文選」での故事からすぐれた歌声を形容する表現です。

 

この歌の内容が頼朝の不興を買ったという部分は

二品仰せて云く、八幡宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚ら、反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。

「関東万歳」つまり、鎌倉幕府の安泰を神を祀る八幡宮で神に祈る舞いを舞うべきところを、頼朝が追って罰しようとしている反逆者である「義経を慕い、別曲を歌う」ことを頼朝は不届きだとして静を怒ったわけです。

続く部分では、正子が

御台所報じ申されて云く、君流人として豆州に坐し給うの比、吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこれを引き籠めらる。而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。また石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、豫州多年の好を忘れ恋慕せざれば、貞女の姿に非ず。

頼朝が流人であったときは、その後の消息もわからず、自分も同じような憂いにあったとして、頼朝の怒りを収めました。

このとき静は義経の子を身ごもっていたようなのですが、後に頼朝はその子が生まれたあと7月29日、その子を由比ヶ浜に捨ててしまうという悲劇に見舞われます。

よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき

義経とはそれ以前、一首目の歌の表すのがその別れです。

よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき

意味は、

吉野の山の峰の白い雪を踏みながら山に入って別れてしまった、その人が恋しい

というものです。

そして、その雪の吉野の山において、義経と静は別れたまま再会は叶いませんでした。

そのため、これらの歌には、切々とした響きがあり、それが人々の心を売ったものでしょう。

静御前について

静御前 1165年-1211年

平安時代末期から鎌倉時代初期

女性白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。




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