いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ
山上憶良の万葉集の和歌の代表作品の現代語訳と解説を記します。
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いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ
読み: いざこどもはやくやまとへおほとものみつのはままつまちこひぬらむ
現代語訳:
さあ皆の者よ、早く日本に帰ろう。大伴の御津の浜松もその名の通りきっと、我々が帰るのを待ちわびていることだろう
作者と出典:
山上憶良
万葉集 1-63
語の解説:
- いざ・・・人を誘う時に発する語。「さあ」の意味
- 子ども・・・従者や舟子らをさす。「ども」は複数の意味
- 大伴の御津・・・大伴の御津は難波の港のこと
- 浜松・・・浜辺の松 松を「待つ」とかけている
句切れと表現技法
- 初句切れ 2句切れ
解説と鑑賞
山上憶良は42歳の時、遣唐使書記としてとして唐に派遣された。
その折に作った歌とされており下の詞書がある。
詞書
この歌の詞書は
山上臣憶良、大唐にありしときに、本郷を思ひて作る歌
その通り唐において本国の日本を思って作った歌だが、一行への呼びかけがあり、日本を恋しく思う従者たちを励ます内容ともなっているだろう。
万葉集と掛詞
掛詞は後の中世の和歌の時代に入ると、修辞として盛んに用いられるようになったが、万葉集の時代にはそれほど用いられていない。
「まつ」を「待つ」と「松」の意味で使った掛詞の歌には、下の歌もある。
吾妹子を早見浜風大和なる吾をまつ椿吹かざるなゆめ
1-73長皇子
遣唐使としての山上憶良
山上憶良は下級の役人であり、遣唐使書記になったのは大きな抜擢であった。
遣唐使に選ばれた理由ははっきりしていないが、憶良の作品には漢学の素養がみられるものが多くあるので、おそらく言葉の読み書きができたので、そのため書記として選ばれたと考えられている。
「大伴の御津の浜松」の場所
遣唐使の一行は難波から船を出して、中国大陸を目指した。
帰りの港も同じであるため、日本で最初に見える風景として「大伴の御津の浜松」を入れたと思われる。
また、山上憶良は、天平五年(733)、多治比広成が大使として遣唐使が難波の津から唐に向かって出発した際にも次の歌を送っている。
大伴の御津の松原かき掃きて我立ち待たむ早帰りませ(895)
難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ(896)
遣唐使として異国に送られた人々にとって、大伴の御津の港が特別な場所であったことがわかる。
また彼らの帰りを待ちわびる人々の気持ちを主に妻の立場に立って表している。
この歌は長歌に続く反歌2首であって、長歌の方も壮大な壮行の歌となっており、かつて遣唐使として選ばれた山上憶良の気負いが十分に感じられるのである。