銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
山上憶良作の短歌、「万葉集」の「子等を思う歌」の長歌と短歌、その序文の現代語訳と解説、鑑賞のポイントを掲載します。
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山上憶良「子等を思ふ歌」
子等を思ふ歌一首、また序
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
安眠(やすい)し寝(な)さぬ(802)
反歌
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(803)
山上憶良の短歌のうち、子どもの短歌として、もっとも有名な一首「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」は、長歌のあとの「反歌」の短歌として置かれているものです。
短歌一首だけでも、よく記憶われている作品です。
この和歌の構成
構成は、「序文-長歌-反歌(短歌)」となっており、長歌と反歌は、漢文風のやや長い序文の後に置かれています。
この記事においては、その中の短歌の解説をします。
「瓜はめば」で始まる長歌については、下の記事でご覧ください。
ここから短歌の解説です。
銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
読み:
しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも
作者と出典
山上憶良 やまのうえのおくら
「万葉集」803
現代語訳
銀も金も玉も、いかに貴いものであろうとも、子どもという宝物に比べたら何のことがあろう
語の解説
・銀…「しろかね」 と読む
・金…「くがね」 「く」は「黄」の交替形「こがね」と同じ
・何せむに…何せむには反語と呼応する副詞で「何しようとも」の意味
しかめやも 品詞分解
・子にしかめやも…「しく」は追いつく、及ぶの意味
・しかめやもは反語で、この一語で「及ぶだろうか。 いや及ぶまい」の意味となる
・「め」は推量の助動詞・已然形
・「やも」は反語を表す係助詞
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「子等を思う歌」解説
この歌には、山上憶良の人間としての無類のやさしさがみられます。
そして、古代性を持った仏教の信仰の中から、一人の人間としての子どもの親、あるいは普通の人間としての隣人に対する思いというものをくっきりと際立たせて、歌の上に表現しています。
万葉集には、風物を詠んだり恋愛を詠んだりする歌はあっても、この時代にこれほど自分の心情や、ある種の思想というものを、はっきりと力強く表現をしようとした歌人は、憶良以外にはいないといわれています。
その点で憶良という人は、「万葉集」の中の歌人として特色を持っている人であり、注目しなければならない人であると、岡野弘彦が言うところなのです。
子どもへの愛の特異性
長歌の解説の方にも書きましたが、この子どもへの愛というのは、いわゆるほのぼのとした子どもへの愛情を詠んだものではないということです。
この短歌の前につけられた長歌の方は、
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ
瓜を食べても栗を食べても、つまり何を見ても考えるのは子どものことばかりであり、眠ろうとしても、どうして頭に子どものことばかりが浮かんでしまうのか、安心して眠ることもできない、というのが、この長歌の意味ですが、上にうたわれているのは、愛情の肯定的な面ではありません。
そうではなくて、子どもが「気がかりな存在」、あるいは、眠りをも妨げるような、そのような自分にとっても不本意であるような偏向を示す存在としてうたわれているのです。
「宝」の帰結へ
しかし、この後の反歌においては、一転翻って、「金銀に勝る宝である」ということを「子にしかめやも」の反語で、一層強く訴えかけます。
この反歌の短歌においては、そのような否定的な面はまったくありません。
一首の構成の意味
つまり、「子どもはこのように困った存在であるが、あればあるほど、あったとしても、子どもはやはり何にもまさる私の宝なのだ」として、何物にも遮られない愛情の強さを強調する、それが、この、「序文-長歌-反歌」の構成の意味なのです。
もし「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」だけであったとしたら、これだけの説得力はありません。
それが、この構成の意味であり、作者は、その効果を考えて一首を仕上げたといえます。
俗と雅の移行と対比
もう一つ大切なのは、長歌において「瓜」「栗」として挙げられていたものが、短歌においては「金」「銀」「玉」として、俗から雅なものへと移行しています。
つまり、それと共に、子どもが「自分を悩ませるいわば困った存在」から、「宝」への転換を遂げているのです。
また、最初の長歌には、釈迦と衆生の聖と俗の対比とその共通点が述べられており、その対比への布石が置かれています。
釈迦の言葉を引用することで、「釈迦もそうする」ということで、一番最初に「子を愛する」ことへの肯定的なイメージを与えて、次に煩悩としての子への愛執をマイナス面も挙げながら、最後の短歌で、翻ってさらに強くその愛情を肯定するのです。
「子等を思ふ歌」序文の解説
この短歌の序文についても、解説を挙げておきます。
子らを思へる歌一首并せて序
釈迦如来(しゃかにょらい)の、金口(こんく)に正に説(と)きたまはく「等しく衆生(しゆうじよう)を思ふことは、羅候羅(らごら)の如し」と。又説きたまはく「愛しみは子に過ぎたることなし」と。至極(しごく)の大聖(たいしやう)すら、尚(な)ほ子を愛したまうこころあり。況(いは)むや世間(よのなか)の蒼生(あをひとくさ)の、誰か子を愛せずあらめや。
序文の解説
「金口(こんく)」とは、金の口のことですが、お釈迦様は全身が金でできている方だということで、その口もまた、金の口ということなのです。
「羅候羅(らごら)」とは、お釈迦様の子どもです。
その釈迦が、衆生、つまり「俗世間の人を思うことは、自分の子を思うことと同じことである」とおっしゃった。
しかし、次のようにも仰せになった。「子どもに対する愛情にまさるものはない」と。
この場合の、「愛しみ」というのは、自分よりも幼いもの、年下の者、自分よりもか弱いものに対して愛情を持つことです。
「蒼生(あをひとくさ)」とは、人間のことです。
『子らを思へる歌』序文の現代語訳
釈迦の言った言葉を挙げて、「釈迦、すなわち至極の聖人ですら、なお子どもを愛する心がある。まして我々普通に人間は誰が児を愛しまないでいられようか」というのが、序文の内容です。
再度、意味をまとめると
お釈迦様の、尊い金のお口から説いている。「民を平等に思うことは、わが子、羅後羅を思うのと同じだ。愛は子に対するものにまさるものはない」
こんな無上の大聖人でさえ、やはり子に愛着する心があるのだ。まして、世の中の私たちのだれが子どもを愛さないではいられようか。
斎藤茂吉のこの歌の評
この長歌は憶良の歌としては第一等である。簡潔で、飽くまで実事を歌い、恐らく歌全体が憶良の正体と合致したものであろう。
憶良は仏典にも明るかったから、自然にその影響がこの歌にも出たものであろう。
そういう仏典の新しい語感を持った言葉を以て、一首を為立したて、堅苦しい程に緊密な声調を以て終始しているのに、此一首の佳い点があるだろう。
けれども長歌に比してこの反歌の劣るのは、後代の今となって見れば言語の輪廓として受取られる弱点が存じているためである。
併し、旅人の讃ホムルレ酒ヲ歌にせよ、この歌にせよ、後代の歌人として、作歌を学ぶ吾等にとって、大に有益をおぼえしめる性質のものである。
本歌取りの短歌
また、斎藤茂吉の短歌には、この歌を本歌取りしたと思われる次のような歌があります。
しろがねも黄金も欲しとおもふなよ胸のとどろきを今しづめつつ