梶原景時は「鎌倉殿の13人」にも登場、武士であり楢が供用があり和歌も残したとされています。
梶原景時の和歌をご紹介します。
梶原景時とは
スポンサーリンク
梶原景時は鎌倉幕府の御家人の一人。
石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用されました。
梶原景時は武芸にも秀でていたのはもちろんですが、その上にも教養があったとされています。
源頼朝からの信任は厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていたものの、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」とされたり、評価が大きく分かれているところです。
※源頼朝の最も有名な和歌は
陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ 源頼朝の新古今集の和歌
※「鎌倉殿の13人」に取り上げられた源実朝の最も有名な和歌は
大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも 源実朝
梶原景時と和歌
梶原景時の和歌で最も有名なのは
・英雄百人一首の和歌
・「吾妻鏡」の和歌
・辞世の句の和歌
の3つです。
梶原景時の英雄百人一首の和歌
梶原景時の「英雄百人一首」の歌は下の歌です。
武家百人一首とは
その前に「英雄百人一首」とは何かというと、1630年より以前の. 鎌倉・室町期の武人他の和歌を集めたものです。
百人一首は、もっともよく知られているものが小倉百人一首で、他にも100人の歌を集めた「○○百人一首」というのがあり、武家百人一首はその中の一つです。
※百人一首について詳しくは
百人一首とは 百人の和歌を一首ずつ集めた秀歌撰
※「英雄百人一首」はこちらで読めます
英雄百人一首の全首一覧
君がけふ 手向の駒を 引連て 行末とほき しるしあらはせ
読み:きみがきょう たむけのこまを ひきつれて いくすえとおき しるしあらわせ
作者:
梶原景時
出典:
「吾妻鏡」
梶原景時の和歌の意味
私の使える主君が寄進の馬を引き連れてきます。末永く源氏が繁栄するよう、その験(しるし)を顕わしてください
解説
「源頼朝の使者として住吉神社に馬を献上したときに、(景時が)釣殿の柱に書いた歌」とあります。
―出典:万葉歳時記一日人葉
梶原景時の武家百人一首の和歌
梶原景時の和歌は「武家百人一首」に選ばれた」とネットの多くには記されています。
ただし、梶原景時の名前では載っておりませんで、
もののふのとりつたへたる梓弓ひいては人のかえすものかは
の作品がそうだといわれているようです。
この歌は武家百人一首では、平景高(たいらのかげたか)の名前で掲載されているもので、平景高についてはwikipediaに
平 景隆(たいら の かげたか)は、鎌倉時代中期の九州の武士。壱岐国の守護代。平経高、平景高とも。壱岐国の守護は少弐氏で、景隆はその家人であったと考えられる。文永の役で壱岐島に来襲した蒙古軍と戦った。
とあるので、同じ人物ではないと思われます。
ちなみに上の歌の意味は
武士の引いた弓矢は戻らない。いったん放たれた弓と同じように人が引き返すものか
というものです。
※武家百人一首はwikiページのこちらから読めます。
梶原景時の他の和歌
梶原景時の和歌として伝わっている歌は他にもあります。
はしもとの君にはなにがわたすべき ただそまがはのくれてすきはや
読み:はしもとの きみにはなにが わたすべき ただそまがわの くれてすきはや
注)結句は「呉れて過ぎばや」と思われる
作者
梶原景時
出典
『吾妻鏡』
建久元年(1190年)、源頼朝が初めて上洛の際に、途中の遠江国橋本宿での遊女を集めての宴で頼朝と交わした歌というエピソードがあります。
橋本の君」はその遊女のことで、そまがわ 杣川というのは、切り出した杣木を流して運ぶ川、または材木のこと。
「すきはや」は「すぎばや」でしょう。「くれてすぎばや」は、「丸太をやって、通り過ぎましょう」という意味のようです。
和歌の意味
この和歌の意味は
はしもとの君には何を渡すべきだろうか。ただ丸太を上げて通り過ぎては
ということで宴会で頼朝にこれを見せた戯れの歌であったと思われます。
梶原景時の最期
梶原景時は、「梶原景時の変」と呼ばれる政変によって亡くなりました。
梶原景時の変(かじわらかげときのへん)は、鎌倉時代初期の正治元年10月25日から翌正治2年1月20日(1199年11月15日 - 1200年2月6日)にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状で弾劾され失脚し、追討により一族尽く殺害された。頼朝死後に始まった鎌倉幕府内部における権力闘争の最初の犠牲者であった。―出典:フリー百科事典wikipedia 梶原景時の変
梶原景時の辞世の句
梶原景時の辞世の句とされてネットに多く記されているものは下の歌です。
もののふの覚悟もかかる時にこそ心の知らぬ名のみ惜しけれ
意味は、
武士の覚悟はこのような死ぬときに必要なものだが、事情を知らない名だけが心残りだ
出典は明らかでなく、さらに下句はやや意味の通らないところがあるため、後世の創作ではないかともいわれています。
しかし、昔のこととはいえ一族がこれによって滅亡、梶原景時にとってはさぞ無念であったことでしょう。
きょう2月6日の日めくり短歌は、西暦の梶原景時の忌日(正治2年1月20日)にちなみ、梶原景時の和歌をご紹介しました。
・日めくり短歌一覧はこちらから→日めくり短歌