あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
万葉集の代表的な歌人の一人額田王作の「蒲生野問答歌」の現代語訳と、語彙や文法、倒置他の表現技法を、大海人皇子の返歌と共に鑑賞、解説します。
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額田王の蒲生野問答歌
天皇、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)する時に、額田王の作る歌
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (1-20)
皇太子の答ふる御歌
紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも (1-21)
この有名な短歌は、「蒲生野(がもうの)問答歌」と呼ばれ、大海人皇子(おおあまのみこ)の短歌と対として鑑賞されるものです。
額田王(ぬかたのおおきみ)の歌の中でも、もっともよく知られる、万葉集の代表歌のひとつです。
この記事では、額田王の歌について解説・鑑賞します。
※大海人皇子の歌についてはこちらの記事に
恋愛の歌は他にも
万葉集の恋の和歌30首(1)額田王,柿本人麻呂,大津皇子,石川郎女
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
読み:あかねさす むらさきのいき しめのいき のもりはみずや きみがそでふる
作者
額田王 ぬかたのおおきみ 万葉集 1-20
現代語訳
紫草の生えているこの野原をあちらに行きこちらに行きして、野の番人がみとがめるではありませんか。あなたがそんなに私に袖をお振りになるのを
語句の解説
- 遊猟……宮廷の廷臣たちが、皆で美しく衣服を整えて野山に出て鹿を買ったり、薬草を集めたりする行事。この歌の場合は宮廷の夏5月の節句の年中行事としての「薬狩(くすりがり)」といわれる。
- 紫野……紫は古代高貴な色とされていた。その染料を取るのが紫草で、生えているのが紫野であり、宮廷の直轄地として保護されていた。
「あかねさす」はその枕詞
※枕詞については
枕詞とは その意味と主要20の和歌の用例
- 標野(しめの)……そのような宮廷の保護された区域。
- 野守……宮廷の管轄地の番人
解説と鑑賞
これらの歌は、恋愛の短歌である「相聞」に収められているのではなく、「雑歌」に分類されており、歌の説明文が示すように、狩の後の宴会の席で披露された歌とされています。
皆の酒盛りの場を盛り上げようと、額田王が言葉の遊び、余興として大海人皇子に呼び掛け、それに大海人皇子が、当意即妙で社交性に富んだ歌を返したというものです。
上に述べたように恋愛の歌そのものというのではないのですが、二首を一続きにして顕れる機微と物語性によって、多くの人に好まれる歌となって、万葉集の問答歌の代表作品となっています。
この歌についてもっと詳しく
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る/額田王の短歌解説
表現技法の解説
額田王のこの歌の表現技法の解説です。
○調べについて
「あかねさす」は枕詞。直接の意味はないため時間的な「間」と共に、枕詞には意味上の「間」もある。
「あかねさす」の意味は薄いため、それ以下が強調される。
「紫野行き 標野行き 」は「一種の繰り返し表現で、移動感・躍動感を表している。(岡野弘彦)」。「動詞を多用して生動感を表すのは王の歌の一特徴である」というのも覚えておきたい。
上の句は枕詞と繰り返しのみで、意味よりは調子に意義があり、大きなゆったりとした調べとなっており、それが「紫野」の広さを表すことともなっている。
繰り返しであっても、最初「紫野行き 」7文字、「標野行き が5文字と短くなるところに、一つの切迫がある。ここで、下の句が待たれることになる。
「野守は見ずや」の「や」に、四句が続いた後の声調の切れ目と一つの緊張がある。そして最後の句に禁忌と制止の「山」を経て、聞き手に見えてくるものが袖振る君の姿である。
「君が袖振る(を)」の目的語が最後に来るのは倒置だが、「振る」の結句には、助詞を省いて終止と同様の安定がある。
一首の構成まとめ
最初からまとめると、導入の長さで広い野を表す上句が続いた後に、声調と意味上の「山」があり、結句でそれが落ち着くという構成。
31文字の短い中にも、くっきりとした起承転結がある。
額田王はどんな歌人?
額田王(ぬかたのおおきみ)は、「鏡王の娘」という以外詳しい出自や生年などもわかりません。
古いことなので、万葉集の作者やその時代の人には、有名でありながらそのような例もたくさん含まれています。
額田王は飛鳥の宮廷に入り、まず大海人皇子と結婚しますが、そのあと兄の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の妻になります。
また万葉集の歌人、鏡王女は額田王の妹とされています。
額田王について
『万葉集』初期の女流歌人。生没年不詳
7世紀後期の女流万葉歌人『日本書紀』に鏡王の娘とあるが,鏡王については不明。同じ万葉女流歌人で藤原鎌足の室となった鏡王女 (かがみのおおきみ) の妹とする説もある。大海人皇子 (天武天皇) に愛されて十市皇女 (とおちのひめみこ) を産んだが,のちに天智天皇の後宮に入ったらしい。この天智天皇,大海人皇子兄弟の不仲,前者の子大友皇子と大海人皇子との争い,壬申の乱などには彼女の影響が考えられる。―ブリタニカ百科事典
額田王の和歌作品について
額田王の残した歌はそれほど多くはなく、短歌が9首、長歌が3首、全部で12首の歌があります。
その歌の特徴は、「ふくよかでありながら、力強く凛々しい」歌と言われています。
額田の王の和歌の特徴
『万葉集』には,皇極天皇の行幸に従って詠んだ回想の歌を最初とし,持統朝に弓削 (ゆげ) 皇子と詠みかわした作まで,長歌3首,短歌 10首を残している (異説もある) 。職業的歌人とする説もあるが,歌には明確な個性が表われている。質的にもすぐれており,豊かな感情,すぐれた才気,力強い調べをもつ。(同)
額田王他の短歌
秋の野のみ草苅り葺き宿れりし宇治の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ 1-7
熟田津(にきたづ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎてな 1-8
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや 1-18
君待つと吾(あ)が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く 1-488