手に包む真玉のごときものありて生くる一年さやかにあらな 佐藤佐太郎の新年詠【日めくり短歌】  

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手に包む真玉のごときものありて生くる一年さやかにあらな 佐藤佐太郎の新年詠【日めくり短歌】

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手に包む真玉のごときものありて生くる一年さやかにあらな

お正月の今日の日めくり短歌は佐藤佐太郎の新年詠2首をご紹介します。

佐藤佐太郎の新年詠2首

お正月の年の初めに詠む短歌を新年詠、新春詠といい、歌を詠む人の習慣ともなっています。

歌人の佐藤佐太郎の新年詠2首をご紹介します。

 

手に包む真玉のごときものありて生くる一年さやかにあらな

 

読み:てにつつむ またまのごときものありて いくるひととせ さやかにあらな

作者と出典

佐藤佐太郎 第9歌集『星宿』昭和56年

一首の意味:

両手に包む輝く玉のようなものがある心持ちであるこれからの一年が、さわやかなものでありますように

解説

「手に包む真玉のごときもの」というのは、新年を迎えての心境を指す比喩となります。

そのような豊かですがすがしい気持ちであるということです。

「真玉」の「玉」というのは、古くからのことばで、「玉」は宝玉のこと、大切な貴重な物という言う意味でしょう。

それが、これからの一年であり、一年という時の長さがそれだけ大切な恵みのごとく思われるということ。

「さやか」の意味

「さやか」は「明か」または「清か」の漢字が当てられます。

くっきりとした、すがすがしいの意味で、「目に見えて明るくはっきりした」視覚的な語感のことばです。

新年を迎える心境を表す上句の比喩が印象的な一首です。

 

「さやか」の用例

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行

 

佐藤佐太郎のもう一首の短歌

かたちなき時間といえど一年がゆたけきままにわが前にあり

読み:かたちなき じかんといえど いちねんが ゆたけきままに わがまえにあり

作者と出典

佐藤佐太郎 第10歌集『開冬』所収。昭和59年

意味と解説

こちらも、年頭に詠ったもので、最初の歌と同じく、「一年」という時間を詠んだものです。

一年の長さ、そしてその中で起こるだろう様々な事柄。なにかはまだわからないが、それゆえの「ゆたけきままに」となるのでしょう。

「かたちなき」という通り、時間は観念でしかありませんが、未来の幸福感がそこに兆します。

「わが前にあり」の約束された確信をもつ、それが一年の初めの心持ちであることに焦点が当たっているのは、見事な気づきというべきです。

佐藤佐太郎について

さとうさたろう【佐藤佐太郎】 1909‐87(明治42‐昭和62)

歌人。宮城県大河原町に生まれ、幼少時代を茨城県平潟町で過ごし、上京して岩波書店店員となる。1927年初めて斎藤茂吉に会い、その門人となる。都会生活に沈湎(ちんめん)する青春のメランコリーと、社会全体を浸す1930年代の鬱屈した時代的空気とを鋭敏繊細な感覚でとらえ、処女歌集《歩道》(1940)によって早くも歌壇の新しい旗手としての地位を確立した。

茂吉の唱える〈短歌写生説〉の実行をめざした属目(しよくもく)は詠嘆に間違いないが、内向的な資質にも導かれ、《しろたへ》(1944)、《立房》(1947)、《帰潮》(1952)など各歌集ごとに自然観照を深めていき、しばしば周囲から社会性や歴史感覚の欠如を批判されながらも、頑固に自己歌境を守りつづけ、老年期に及んでからは漢詩的世界に自在の境地を見いだした。

 

佐藤佐太郎は、歌人であり、斎藤茂吉のお弟子であった人です。

斎藤茂吉の短歌解説には、ブログ筆者はたいへんに助けられました。

同じ弟子であっても、柴生田稔のように「君が仕事手伝ひて果てむ一生かと嘆きたりにしてことも思ほゆ」と詠ったに対して、

私は斎藤先生に師事し、念々に先生の歌にまねんで薫染せんことを希(ねが)つてゐる。それゆえ私の歌は先生の模倣に終始するものと謂っていい。

といったところが、佐藤佐太郎の偉いところであり、幸せなところだと思います。

佐藤佐太郎の斎藤茂吉解説

 

以上今日の日めくり短歌は、佐藤佐太郎の新年詠2首をご紹介しました。

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