牛を詠んだ短歌は、たくさんの歌があります。牛は古くから人々に親しまれてきた動物です。
今年は丑年、牛の短歌万葉集から近代短歌、現代短歌まで思い出すものを集めました。
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牛の短歌
今年の干支、丑年にちなみ牛の詠まれた短歌をご紹介します。
できるだけ年代順に配列、万葉集から現代短歌まで牛の短歌をご紹介します。
万葉集の解説:
万葉集とは古代の詩歌集!いにしえの心にふれてみよう
万葉集の牛の短歌
万葉集の牛の出てくる短歌は下の一首のみです。
吾妹子が額に生ふる双六の牡牛の鞍の上の瘡
読み:わぎもこが ひたいにおうる すごろくの こといのうしの くらのえのかさ
作者と出典
作者安倍子祖父(あべのこおおじ)
万葉集 16巻 3838
歌の意味
吾妹子の額に生えた双六の雄牛の鞍の上の腫れ物
解説
万葉集にある牛の歌は長歌が2首ありますが、牛の詠まれた短歌はこの歌のみです。
この歌が詠まれた背景は、舎人(とねり)親王(天武天皇の皇子)が従者たちに、「意味の無い歌を作る者がいたら褒美を出そう」と言ったために詠まれたものです。
従者に詠ませ競わせるという余興の目的で、自発的に詠まれたものではありませんが、この歌の作者安倍子祖父(あべのこおおじ)は、これを詠んだことによって賞品として銭二千文(もん)を与えられたと伝えられています。
歌の主題通りに歌の意味はありませんが、内容がどうというよりもエピソードがおもしろいので万葉集に掲載されたものと思われます。
藤原定家の牛の和歌
小倉百人一首の選者でもある藤原定家のよく知られる牛の歌
ゆきなやむ牛のあゆみにたつ塵の風さへあつき夏の小車
読み:ゆきなやむ うしのあゆみに たつちりの かぜさえあつき なつのおぐるま
作者と出典
作者:藤原定家 出典:『玉葉集』
歌の意味
歩くのも苦労する牛の足元に立ち起こる塵の風までも暑い夏の小車よ
解説
夏の暑さを詠った歌。この頃の身分の高い人は牛の引く牛車に乗って移動をしていました。
ここからは、近代短歌の牛の歌です。
石川啄木の牛の短歌
つかれたる牛のよだれは たらたらと 千万年も尽きざるごとし
読み:つかれたる うしのよだれは たらたらと せんまんねんも つきざるごとし
作者と出典:
石川啄木 「一握の砂」
現代語訳:
疲れている牛の涎はたらたらと、まるで千万年も尽きないものであるかのようだ
石川啄木は岩手出身で牛は身近なものであったでしょうが、これを詠んだ時は東京住まいでした。
おそらく、自分が仕事で疲れた時に思い出した牛の様子なのでしょう。
伊藤左千夫の牛飼いの短歌
牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる
読み:うしかいが うたよむときに よのなかの あらたしきうた おおいにおこる
作者:
伊藤左千夫 「明33牛飼」より。
歌の意味と現代語訳
牛飼いの仕事をしている私が、歌を詠むその時、世の中の新しい歌がまさに起こるだろう
解説:
伊藤左千夫は牛乳搾乳業という仕事をしていて、牛を飼い、牛乳をしぼって、各家庭に届けるという、今でいう牛乳配達のような仕事をしていました。
「牛飼い」とはいっても、牧場での飼育とは違って、その頃では新しい職業であり、あるいは新ビジネスの一つでもあったと言ってもいいように思います。
牛は、伊藤左千夫のトレードマークでもあり、斎藤茂吉は、写真を回顧して「君が愛でし牛の写真のいろ褪せて久しくなりぬこのはだら牛」と詠んでいます。
他に
牛飼の歌人(うたびと)左千夫がおもなりをじやぼんに似ぬと誰か云ひたる(明40じゃぼん)
竪川(たてかは)に牛飼ふ家や楓(かへで)萌え木蓮咲き児牛(こうし)遊べり
土屋文明の牛の短歌
牛と共にありし吾三月かえり見る牛にも長くかかはりなきを
土屋文明は、伊藤左千夫の元で書生となり、当初は牛の世話をしながら学校に通っていましたが、伊藤左千夫は文明に高等教育を受けさせようとして、牛の世話をやめさせました。
その時の生活状況を詠ったものです。文明はその後東大に合格、師の左千夫を生涯敬愛しました。
斎藤茂吉の牛の短歌
斎藤茂吉は折々に牛の短歌を詠んでいます
牛の背に畠つものをば負はしめぬ浦上人は世の唄うたはず
出典:
歌集『あらたま』
歌の意味
牛の背に畑で採れた重い収穫物を背負わせることもしない浦上の人たちは、俗謡を歌わない
解説
「浦上人」は信仰を持つ長崎のキリスト教信者たち。牛は、畑を耕すのに使ったものでしょう。
荷物を背負わせずにいるその様子と、また素朴な囃子言葉のみで牛を連れてゆく、その姿を見て、「世の歌うたはず」といったのです。
この歌の詳しい解説
牛の背に畠つものをば負はしめぬ浦上人は世の唄うたはず
しづかなる午後の日ざかりを行(ゆ)きし牛坂のなかばを今しあゆめる
意味と解説
歌集『あらたま』より。
停電中の電車の中から見た風景。遠く見える坂に、牛が歩いている、明るい午後の陽ざしの中で高くなっている坂だからそれが良く見えるというものですが、牛ののんびりした動きが想像されて、緩やかな時間が流れています。
斎藤茂吉は医師で大変忙しかったのですが、停電中の電車の中で致し方ないとはいえ、やや気を緩めて過ごしたものと思われます。
この歌の佐藤佐太郎の評は
晩夏の白昼の息をひそめたような気配を「しづかなる午後の日ざかり」といったのが簡潔でいい。「日ざかり」という俗語の使用も的確だし「を」という助詞の使用も自然である。ありのままで不思議に静かな歌である。
関連記事:
しづかなる午後の日ざかりを行きし牛坂のなかばを今しあゆめる斎藤茂吉『あらたま』
他にも
わたつみに向ひてゐたる乳牛が前脚折りてひざまづく見ゆ
意味と解説
歌集「霜」より。
「わたつみ」は海のことで、海で身体を洗われていた牛が、ふと見せた敬虔とも思われる仕草に作者茂吉は心を打たれます。
他に
ゆふぐれの海の浅処(あさど)にぬばたまの黒牛疲れて洗はれにけり
ゆふ渚もの言はぬ牛つかれ来てあまたもの専(もは)ら洗はれにけり
―『あらたま』10 海浜守命
秩父かぜおろしてきたる街上(がいじやう)を牛とほり居り見すぐしがたし
古泉千樫の「牛」の短歌
アララギ派の歌人で、牛を好んで詠んだのが、古泉千樫(こいずみちかし)です。
入りつ日の名残さびしく海に照りこの牛ひきに人いまだ来ず
夕日の残る渚に、一頭だけ取り残された牛を詠んでいます。
「人いまだ来ず」は、牛を飼った経験のある人は誰でもが思うことなのでしょうが、上の句の「さびしく」を強調するものです。
茱萸の葉の白くひかれる渚みち牛ひとつゐて海に向き立つ
こちらも海にいる牛の風景。
岡野弘彦評は
風景がしっかりととらえられていて、牛の姿と牛を包んでいる風景が眼にうきあがってくる。それとともにその牛をめぐって、ほのかな悲しみの思いがゆらゆらと立ちのぼってくる。歌の調べと、描写と、抒情とが微妙にひびきあって、歌の至福の姿を見せている。
他に
乳牛の体のとがりのおのづからいつくしくしてあはれなりけり
さ庭べにつなげる牛の寝たる音おほどかにひびき昼ふけにけり
夕なぎさ子牛に乳をのませ居る牛の額のかがやけるかも
関連記事:
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現代短歌より牛の歌
ここからは現代短歌より牛の歌です。
作者:石川不二子
意味と解説
塩分を欲して、汗に濡れた作者の髪をなめる牛とのふれあいが美しく詠まれています。
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烏(からす)より黒き和牛が売られゆく生徒の群れに手を振られつつ
作者:
森垣岳
意味と解説
黒牛が売られていく風景。
あるいは、学校で飼っていた牛が大きくなり手放さなくてはならなくなったものかもしれません。
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ヘリコプターに吊らるる大きコンテナより牛の脚細くはみ出でてをり
作者:
酒井佑子
意味と解説
運搬中の牛、否、運搬されているものが、牛だと気が付くまでの情景でしょうか。
不思議な光景です。
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牛の仔の乳吸ふ音の聞こゆるも心にしみぬふるさとに寝て
牛の子を伴いて母の嫁ぎ来しその山道も荒れて家絶ゆ
どの家も庭先に牛を涼ませて物の音なき夕のふるさと
作者:
小谷稔
意味と解説
作者はアララギ派の歌人。「牛の子」のタイトルの歌集があります。
終りに
今はなかなか直接目にすることはありませんが、牛は古くから人々に親しまれてきた家畜だったことが、短歌を通じてもわかります。
丑年をきっかけに、牛の短歌を皆様も探してみてくださいね。